福島県史料情報 創刊号
福島県設置の文書
戊辰戦争直前の本県域は11藩の本領(福島・二本松・棚倉・平・会津藩など)と14藩の分領(足守・新発田・関宿藩など)、幕府領、旗本領から構成されていた。その後の変遷を経て、明治4年(1871)7月の廃藩置県で10県(福島・白河・若松・二本松・三春・棚倉・中村・平・湯長谷・泉。全国は3府306県、12月に3府72県となる)と、10分県(黒石・三池・小見川・笠間など)となり、11月には若松・二本松・平県に統合された。その直後、二本松県は福島県に、平県は磐前県に改称された。9年(1876)8月21日、明治政府は府県統廃合を断行。全国の3府59県は3府35県となった(明治10年代以降の分県により、県数は増加)。福島・若松・磐前3県は1県となり、現行の本県域がほぼ確定した(旧若松県管轄の東蒲原郡は19年5月に新潟県へ移管)。 福島・若松・磐前三県合併は岩倉具視から福島県への通達によってなされた。口絵がその通達である。明治九年『官省達』(F141)に綴られている。当時、岩倉は明治政府最高官の右大臣であった。若松・磐前県を廃止し、福島県は両県の土地と人民を引受けるように命じられている。三県合併に伴って、磐前県管轄下にあった亘理・伊具・刈田郡は宮城県へ移管されている。
(阿部)
創刊にあたって
―歴史を語る史料の活用を―
館長 遠藤 剛
福島県歴史資料館は、昭和37年から10年の歳月をかけて進められた福島県史の編纂過程の中で収集された県庁文書や諸家文書等に加えて、県内各方部に伝存する古文書の保存と利用、さらには、その調査研究に対応すべく昭和45年7月に設立されました。
文書館に類する公の施設としては、全国で第5番目と古く、これ迄に先輩の皆さんの専門性の高い調査研究をはじめとする諸活動によってその地位を確立し、独自の歴史と伝統を築いてきました。殊に全県に亘って数多くの歴史的に貴重な古文書等を関係者の格別のご協力を得ながら精力的に収集保存してきていることは、全国的にも高く評価されております。
この優れた伝統を継承しつつ、来るべき時代の文化的社会的な様々の要請に応えながら、本県における文書史料の中核機関としてさらなる発展を遂げるよう努めて参らなければならないと存じます。
そのための館運営の基本理念をこの機にあらためて述べますと、その第一は本県における歴史的文化的に価値ある文書記録の原資料を決して散逸することのないよう収集・保存整理し、広く県民の利用に供することであり、さらには、自主的な研究活動を基盤にして、学問的要請に応えるとともに、歴史を尊重し、知識を求める県民自らの学習活動の推進に資することを館の使命と考えております。
高度に複雑化した現代社会においては、様々な問題解決に迫られており、少しでもその進むべき未来の方向を明らかにしたいとの願望のもとに、過去に光をあて、歴史の背景にある人々の意志にふれたい、智恵に学びたいという県民の潜在的な欲求は高まりつつあり、これに応えて館機能の一層の充実に努めて参らなければならないと存じます。
このたび当館からの情報発信の一環として、新たに「福島県史料情報」を発行することになりましたがこれは地域史の調査研究活動をされている皆様に、その促進に何らかの形で役立つような情報を提供したいとの意図のもとに発行するものであります。情報誌発行については、かねてより関係の皆さんから要望あるにも拘わらず実現できずにきましたが、このほど館の体制が幾分整備されたことに伴って、館員勇躍奮起することになった次第です。学芸員が業務の傍ら携わるものであり、どれ程皆さんの意に沿い、役立つ情報を提供しうるかは、内心忸怩たるものを禁じ得ません。
さらに本誌は、孜々として研究活動をする中にあっても、関係の方々相互の連携を深めることは、活動の促進と向上につながることであり、その橋渡しの一助になればとの希いもこめられております。
ささやかな情報誌の船出ではありますが、継続発展の歴史を辿ることができるよう微力を傾倒して参りたいと存じます。どうか皆様の暖かいご支援とご指導を賜りますよう切にお願いいたします。
福島県の成立と史料①
現行の福島県は明治9年(1876)8月に3県(福島・若松・磐前)が合併して成立した。若松・磐前両県の存続期間は数年に過ぎないが、大量の旧両県文書が新制福島県に移管されることになった。明治8年11月「府県職制並事務章程」が制定され、磐前県は6課体制となっていた。県政全般を統括する第一課には、庶務・社寺・戸籍・徴兵・駅逓・編輯の6掛が置かれていた。『旧磐前県引継目録並演説書第一課常務』(F16)によれば、第一課文書は5回に分けて移管された。1回目=9月21日(編輯以外の5掛分)、2回目=9月29日(6掛分)、3回目=10月2日(社寺掛分)、4回目=10月26日(庶務掛分)、5回目=11月(庶務掛分)である。文書の移管は9月下旬の1・2回目でほぼ終了し、3回目以降は庶務・社寺掛分遺漏文書の追加的措置であった。1・2回目の移管文書は庶務掛90件、社寺掛29件、戸籍掛42件、徴兵掛26件、駅逓掛39件、編輯掛4件であった。県政全般を統括していた庶務掛の場合、布告布達留31冊、管省日誌12冊、官省諸規則5冊、官省御達留3冊、官省指令留3冊、官下布達留12冊、県庁日誌6冊、旧中村県ヨリ伺指令2袋などのようであった。この他に、聖上御写真1枚、県印1個、租税寮地券証印1個も移管された。また、最多冊数は戸籍掛移管の戸籍帳161冊であった。
旧両県文書はその後の散逸により失われたものもあったが、明治40年(1907)『旧若松県旧磐前県書類目録福島県』(F1285)は旧若松県分554冊、旧磐前県分494冊を記載している。その一部は廃棄処分・散逸を免れ、現在は福島県歴史資料館が保管している。『日誌若松県』(F61)、『磐前県日誌庶務課』(F66)、『院省特達書仮綴若松県』(F122)、『御指令編冊若松県』(F237)、『磐前県履歴』(F472)などの簿冊である。
(阿部)
この本と著者 大内寛隆著『近代福島と戦争』
小著が歴史春秋社から公にされたのは、昨2001年5月15日であった。その日は、今時の「今日は、何の日」風にいえば、海軍青年将校による同時多発テロによって、犬養毅首相が殺害され、いわゆる「憲政の常道」が葬りさられた五・一五事件から70年目にあたっていた。
さて、小著は、著者の3分の1世紀にわたるささやかな体験から、(おもに高校の)教科書では取り扱われない事項、取り上げ方が十分でない事項、また、昨今話題になりながら、国民に対して体系的に説明されていない事項などにかなりのスペースを割いた。
例えば、靖国問題の原点としての招魂社の創建と合祀の経緯、国内唯一の地上戦と戦後の軍事基地沖縄の出発点としての琉球処分の過程、国民軍編成を謳った徴兵制度の変遷、帝国国防方針に始まる日本の世界戦略、大東亜共栄圏構想の実像、総力戦体制としての本土決戦態勢、復員、引揚げ、抑留などの終戦処理、近代戦における日赤救護班=従軍看護婦の活動、歩兵第65、29連隊以外の出身兵士の配属部隊の転戦経過、県内出身の軍指導者の動き、戦時教育における白虎隊精神、戦時体制下の国民の真情などである。
だが、コンパクトな小著の編集上の制約と、筆者の浅学のために、行き届かなかったところも多く、読者の期待を裏切ったことも否めない。
例えば、日露戦争の動員・戦死傷数表や鈴木啓久の「筆供自述」の細菌戦などの脱漏、児玉機関、反戦思想・反戦運動、水野広徳の思想と行動、徴兵忌避・兵役忌避・兵役拒否、赤紙のからくり、満蒙開拓の全体像、引揚げ・抑留の実態、戦後の靖国合祀を巡る政府と神社の関係などスペースを割くべき事項がまだまだあった。
小著がこの種のものとしては、先行的な作品であることに免じられ、読者諸賢の良識ある批評と恒久平和のいしじともなれば、幸いである。
(著者 大内寛隆)
歴春ふくしま文庫69、B6判、231頁
歴史春秋出版株式会社(℡0242―26―6567)
2001年5月発行、1200円+税
研究会活動情報
福島県史学会の活動
福島県史学会は、昭和25(1950)年11月5日に発足し、初代会長には福島大学経済学部教授の中村常次郎先生が就任され、事務局は福島大学経済学部内に置かれた。
事務局の仕事は、当時、東北経済研究所に勤務されていた庄司吉之助先生があたったといわれる。会誌『福島史学研究』の創刊号は、昭和26年7月に刊行された。福島県史学会は、昭和28年10月24・25の両日、福島大学経済学部で開催され、東北七県の史学研究者が参加した大がかりの催しであった。第2日目には、第10部会(郷土史)として、福島県関係の研究報告がおこなわれ、18人の研究者が発表し大きな成果をあげた。しかし福島県史学会の活動は、財政難から昭和30(1955)年11月、『福島史学研究』第6号「きいとのまち」特集号を刊行して休会した。
その後、地方史研究の興隆によって、福島県が、昭和36(1961)年から準備にかかり、昭和37年度から本格的に県史編纂事業を開始したこともあって、昭和39年11月、福島県立図書館が主催していた地方史研究講習会において、参加者から福島県史学会の再発足を強く要望された。
昭和40(1965)年11月、地方史研究講習会の開催にあわせて、第1回福島県史学会総会を開催し、会長に福島大学経済学部の庄司吉之助先生をむかえて再発足した。事務局は、福島県立図書館に置かれ、郷土資料を担当していた誉田が受け持った。『福島史学研究』復刊第1号(通巻第7号)が、昭和40年8月刊行された。会員数82名(昭和41年3月現在)であった。県立図書館に事務局が置かれたのは、昭和45(1970)年8月末までで、9月からは、福島県文化センターに併設された福島県歴史資料館に移り現在にいたっている。『福島史学研究』復刊第10号(通巻第16号、昭和45年5月)までが県立図書館に事務局が置かれた時代に刊行された。
福島県歴史資料館が昭和45年9月1日に開館したことから、福島県史学会の事務局は、福島県立図書館から事務局担当の誉田が歴史資料館に転じたことから、福島県歴史資料館に置かれることとなった。
機関誌『福島史学研究』は、復刊第11号(通巻第17号、昭和45年11月)から第74号(平成14年3月)まで刊行されている。しかし、昭和60(1985)年4月30日福島県史学会会長庄司吉之助先生の逝去、そのあとを継がれて史学会長となった田中正能先生は、平成4(1992)年まで在任され、福島県史学会の運営に多大のご指導をたまわったが、平成13年8月に逝去された。
福島県史学会は、今後とも年2回の会誌の発行を実行し、歴史資料館の基本的な業務である歴史資料の調査・収集と整理・公開および研究に協力し、また県内の地方史研究者および研究団体と交流をはかり、歴史資料館の内容の充実に協力する。
(会長 誉田 宏)
住所:〒960―8116 福島市春日町5―54福島県歴史資料館内
電話:024―534―9193
年会費:3000円
会誌:年2回発行『福島史学研究』 第74号(平成14年3月)
市町村史と史料
飯野町史編纂と史料
平成10年から開始した飯野町史編纂は、今年度古代・中世・近世資料編を刊行し、全3巻を予定している。編纂事業開始と同時に町内の歴史資料の調査が精力的に進められ、これまで町内諸家に伝わる古文書資料約5万点をすでに収集している。たとえば大久保地区の高野彰男家文書は近世前期の史料、青木地区の明治初期の戸長役場や郡会議員を勤めた須田忠家文書など、約120家の古文書を現在編纂のための整理作業が行なわれている。そのなかに、近世前期の農業経営成立に関わる史料として重要な貞享年間の史料が関家文書にある。関府中家は慶長5年の上杉と伊達の合戦に梁川城の上杉家臣須田大欣のもとについた小手六十三騎の1人関帯刀の流れをくむ家である。貞享2年のこの史料には、持高243石を兄弟相談で「なわを引」つまり分与することを記し、同4年に分与高が記載され、中世的大経営形態から近世農民経営への変遷を知るうえで特筆できる史料である。さらに、養蚕関係の史料も多く、安政6年の「蛹仕入手控帳」は、関直右衛門家文書で、守山藩や二本松藩領の徳定や福原から蚕の蛹を仕入れた史料で、ほかに池坊などの花道史料も収集している。
飯野町史編纂は地域の歴史資料である和台遺跡の出土遺物、民具、古文書などを可能な限り収集し、町民の過去の歴史資料として保存に力を入れている。
(村川)
県歴史資料館のコーナー
新公開史料五大院文書(その2)
五大院は、伊達郡飯野町にあった修験道(天台系本山派)の中核的寺院である。その由緒は古く、役小角がこの地で薬師如来像の開眼供養を行なったと伝えられ、大宝2年には行円が堂を建て、東聖山医王寺と称したという。江戸時代には、大先達伊予坊の配下として、また京都聖護院下積善院の末寺として、この地域の修験を支配した。
当文書には、前年度に公開した(その1)に引き続き、近世文書を当館の寺社文書分類項目にしたがい整理・収録した。総計842点、、項目は下記の通り。宗政・宗務(庶務、出入・訴願、保証、交通)、学芸思想(諸学、書画・絵画)、諸事、諸教、経営(土地・霞、生計)。
(山田)
動向
- 13年度の当館の資料利用点数は9786点で前年度比57%の増となった。背景は資料整理の促進と見ている。
- 14年4月1日付で当館職員のうち5人が研究職に切り替わり、身分は学芸員となった。
- 本誌は四半期ごとに発行します。購読を希望される方は、福島県歴史資料館にお申し出ください。