福島県史料情報 第2号
わらだ廻状
幕末の慶応2年(1866)信達地方で起ったいわゆる「世直し一揆」の史料の一つである。
近世に県内で起った農民一揆は、天正19年(1591)会津下郷での検地に対する反発から役人16人を殺害した事件以来、 慶応4年(1868)まで177件である。信濃が151件で伊予が142件、越後102件で全国では最上位である(吉田勇著『ふくしまの農民一揆』)。 なお、天正18年(1590)から明治10年(1877)まで全国では3700余の一揆が起っている(『国史大辞典』)。
県内の一揆発生時期は、享保・文政・天保期および幕末の嘉永・安政期に特に多く、その42パーセントとなっている。
おもな一揆は、天和元年(1681)の白河藩内184カ村が検地による新課税免除を要求する愁訴、享保5年(1720)の南会津地方一円で起こる 「南山御蔵入騒動」、寛延2年(1749)各地で発生した凶作にともなう年貢減免や夫食米要求の一揆、寛政10年(1798)の越後高田藩領内の 重課に対する強訴「淺川騒動」や幕末の世直し一揆などである。
慶応2年の信達世直し一揆は、蚕種・生糸の生産地伊達郡、信夫郡一円の農民が幕府の蚕種・生糸出荷に対する新税に反発し、長岡(現伊達町)の 天王祭糸市の日に決起、蚕種商家など豪商を打ちこわし、桑折代官所を襲撃し、さらに福島城下へ移るが福島藩は鎮圧できず157軒が打ちこわされた。 このわらだ廻状は蚕を飼育する「わらだ」の形に似た一揆連判状である。首謀の村を伏せるため、円状に同意した村の連名があり、中央にその趣旨は 「世の中を安穏にするための行動である」などと記されている。
幕末における社会不安を背景とした全国的にも大規模な一揆であることから、この史料は歴史書や歴史教科書などに広く写真掲載され利用されている。
(伊達町 韮沢 一 家文書)
(村川)
公文書館法と本県の歴史資料としての文書保存
公文書館法は昭和62年に議員立法により制定されたがこの法律は、簡単な規定からなる精神規定的色彩が濃いもので、 歴史資料としての公文書等の保存及び利用に関して具体的にどのような措置を講じるかは、国と地方公共団体の裁量に任されている。
同法の趣旨に照らして、本県の歴史資料として重要な公文書等の保存及び利用は、どう行われているのか。さらには、同法制定後文書館設置が促進され、 各県に10の文書館が新しく設置(名称は文書館又は公文書館とまちまち)されたがこれら新設文書館と文書館施設である本県歴史資料館が 保存機能等の面でどのような相違があるのかを要約してみたい。
なお、その前に公文書館法の主たる意義をあらためて簡単にまとめてみることとする。
その第一は「公文書等を歴史資料として保存し、利用に供することの重要性」が明確にうたわれ、公文書の歴史的資料としての価値が再確認されたということの意味は大きい。なお、同法第二条で「公文書等とは、国又は地方公共団体が保管する公文書その他の記録をいう」と規定されており、 その他の記録には、古書、古文書が含まれるものである。
第二は「国及び地方公共団体に対し、歴史資料として重要な公文書等の保存及び利用に関し、適切な措置を講じる責務」が課されたことである。
第三は公文書館に「国及び地方公共団体に対し、歴史資料として重要な公文書等について、調査研究を行う専門職員を置く」ことを義務づけたことである。
そこで先ず本県における歴史資料として重要な公文書の保存についてみてみると、本県の場合福島県文書管理規則で歴史資料として価値ある重要文書については、基準に基づいて選定のうえ、一定のルールに従って保存措置をするよう文書学事課長及び原課の課長に義務づけている。 また、保存方法については、(財)福島県文化振興事業団に委託し、同財団運営の歴史資料館において保存することとしている。従って、 同法の趣旨に沿って制度が整備され、保存措置がとられている。
しかるに、新設文書館と対比すると保存機能等の面でどういう相違があるかということであるが、昨年から今年にかけて他県七館を視察した結果によると
①公文書について新設文書館は、永年保存文書はもとより、一定年数を経たものについての保管及び保存を原則全部引き受けているところが多い。 書庫が大規模であるため可能となっている。当館の場合は、永年保存及び保存年限を経過した公文書中から、歴史資料として価値ある文書として 選定したものに限って保管しており、永年保存文書については一部本庁機関が保存しているものもある。
②新設文書館においては、一般的には公文書、古文書その他の記録文書と広く対象としているがどちらかというと公文書のウェイトが高く、 古文書を全く扱っていない館が2館ある。当館の場合、県史編纂過程の中で収集された諸家文書や明治・大正・昭和戦前の公文書の保存と利用に端を発して昭和45年に設立された経緯もあり、全県に亘って数多くの歴史的に貴重な古文書等を精力的に収集保存してきておるのが特徴である。
③調査研究を行う専門職員の確保については、今年6月開催された全国公文書館長会議でも最重要テーマとして論議された。公文書館法の専門職員配置の規定は、専門職員なしに文書館は成立し得ないことを意味している。新設文書館の場合、行政職で一般事務に携わっていた者が 文書担当として配置になり、3,4年で異動するケースが一般的である。高度な知識を有する専門職員を養成するという点では大きな問題となっている。 当館の場合財団運営であり、最初から財団の職員として、かつ、歴史資料館勤務の専門職員という条件で採用しており、しかも今年度から 関係当局のご理解により職種が研究職に切り替わっている。人材の養成という点で当館は恵まれた環境にあると言え、今後とも館機能の充実に大きな力となるものと考える。
歴史資料としての文書の保存がどれだけ重視されているかは、歴史と文化遺産をどれだけ大切にしているかを示すバロメーターとさえ言える。これら文書の保存を実効あらしめるためには、関係機関は、様々の機会を通じて普及啓蒙に努めるとともに、行政機関自らにおいては、歴史資料としての公文書を不用意に廃棄したり、散逸したりすることなく保存されるよう、選定から始まる保存システムの整備と運営に万全を期さなければならない。公文書館法の歴史資料としての文書資料保存の責務規定により、行政機関は行政的観点のみに立脚しての非現用文書の廃棄はできないと解すべきである。これに加え、歴史を後代に伝え、実証として重要な意味を持つ文書を県民共有の財産として保存することは当然の責務であることを行政に携わるすべての職員が十分に自覚することが何より大切である。
(館長 遠藤)
この本と著者 鈴木 啓著『ふくしまの城』
自著紹介は、本の内容の適否・長短が自覚されないため、客観的な書評や紹介にはならない。ここでは、どのような趣旨で叙述したかを書くことにしたい。
福島県域には、幕末に15藩・14分領があって、伊達・南部・津軽藩のように、一県域一藩的なあり方と異なり、館はもとより城が多い。 その数は1896で、旧郡内に万遍なく分布している。そこで旧各郡から23の城館を選んで、どこの住民の方にも参考になるよう配慮した。
城は①暴力装置としての要塞、②支配機関としての政庁、③文化施設としての居宅の機能を持つ。城館は、時代によって三機能のうち 一、二を備えるのみであるが、信長・秀吉の時代に至って三機能を完備し、江戸時代に入ると要塞機能を失っていく。
刊行される城館に関する図書の多くは、文学調か、建築学的視点から天守・櫓・復元概念図中心の豪華本が目立つ。その影響で見学者は、 天守にかけ登るかモニュメント探しに片寄りがちである。見学効率を高めるため、ここでは城が本来持つ歴史性を中心に、 「城歴」・「構造」・「守城と攻城」・「性格と特色」の四項を立て、城の本質を理解するためのポイントを解説した。つまり、 「どう作られどう使われたか」を明らかにしようと努めたつもりである。
城はいつも、歴史の中心に置かれた巨大な実用品で、領主たちは財力・知力・技術力の結晶として構築したから、どれも独自性を持ち、 背後には為政者の見識と美意識が隠されている。人間の残した遺跡は各種ある中で、城館は最も親しまれている遺跡である。 どこにでもある城館を、愛情の目で見つめていただきたいとの思いで執筆した次第である。
本書で欠けている部分がある。それは、城下町である。城下町は、支配・流通・技術・文化の中心で品位あり、現代都市文化の 母体となったことを付記する。
(著者 鈴木 啓)
歴春ふくしま文庫57、B6判、218頁
歴史春秋出版株式会社(電話0242-26-6567)
2002年7月発行、1200円+税
研究会活動情報
郡山地方史研究会の活動
郡山地方史研究会は、昭和31年前会長故田中正能氏を中心とする数人の同好者の集まりとして発足したのが始まりである。 当初は研究成果の集録出版も自費で行われ、その苦労は並みのものではなかったようである。その内、地方史研究を志す人たちの入会が続き会員数が30人近くになった昭和39年、会則および会費制を整え郡山地方史研究会として正式に発足した。
発足時の役員は会長が田中正能氏、副会長鹿野 のぼる氏、幹事山崎義人氏、事務局長鹿野正男氏で、事務所は郡山市立図書館(現郡山市歴史資料館)に置かれた。当初の事業を箇条的に上げると次の通りである。一、講演会の開催(共催も含め) 二、古文書講習会(近世以前の古文書の解読入門講習) 三、文書整理(郡山市内の所蔵文書の分類整理) 四、研修会(市内の文化財・史跡巡り、研修旅行の実施) 五、研究団体との交歓会 六、機関誌『郡山地方史研究』の発行等である。
同研究会は今年で、創立38年を迎えた。その間、福島県史や郡山市史の編纂事業が行われ、会または会員として直接間接の協力を致したことは申すまでもない。そうした会の地道な活動が認められ、昭和34年に郡山市より同市の優良社会教育団体に、 同61年には財団法人福島県文化振興基金より同60年度の顕彰団体に、平成元年には福島県教育庁より文化優良団体に、 さらに平成14年には「街こおりやま社」より「ふるさと大賞」に選ばれ、それぞれ受賞の栄に浴している。
こうした会活動の反面、有力な会員の世代交代も進んでいる。特に昨年度は郡山地方史研究会の生みの親であり、指導者であった初代の会長の田中正能氏が逝去されたことは会にとって大きな痛手であった。しかし、それを乗り越え先輩の築いた活動を発展させるべく努力している。会の現況(平成14年度)を簡単に紹介すると次の通りである。会員数90名、年会費3000円。 事業内容 一、総会及び講演会 二、文書筆耕(開成館開拓文書、守山藩御用留帳) 三、研修旅行(中田ささら、白河まほろん) 四、研究発表会(昨年度より実施) 五、第35回古文書講習会(1月~3月、8回) 六、機関誌『郡山地方史研究』 第33号の発行。なお、文書整理が臨時に入る場合がある。
(会長 渡辺康芳)
住所:〒963-8876郡山市麓山1-8-3 郡山市中央図書館附属歴史資料館内
電話:024-932-5306
年会費:3000円
会誌:年1回発行『郡山地方史研究』第33号(平成15年3月)
福島県の成立と史料②
前回は明治9年(1876)8月の三県合併に伴う移管文書について述べた。今回は移管された旧県管内図を取り上げる。
県治執行のためには、県治の及ぶ範囲を把握しなければならない。そのために、行政区域(県域)を標示する詳細な管内図が作成された。磐前県の移管事務文書『旧磐前県引継目録並演説書第一課常務』(県庁文書F16)は新制福島県移管の管内図として、「旧県々送絵図類四十三通」「管内地図一筥」を記載している。同4年7月廃藩置県により湯長谷・泉・磐城平・笠間など6県・4分県が成立。 11月、平県を経て磐前県に統合された。「旧県々」は6県・4分県を指している。移管の管内図は「旧県々」作成分43点、磐前県作成分1箱であった。また、若松県の『旧若松県引継目録並演説書第一課常務』(F18)は「管内絵図壱函」「若松県管轄全図壱枚」「岩代国若松管内地理図壱枚」を記している。若松県作成の管内図は箱詰めされたもの、箱詰め不能の大型図2点であった。移管事務の終了は、若松県が9月7日、磐前県が同月23日であった。
三県合併時、旧県管内図の大半は廃棄されたと思われる。新制福島県の県治執行に必要な管内図のみが移管の対象となったからである。それでも、移管された旧県管内図は大量に存在していた筈である。現在、旧県管内図は福島県立図書館の所蔵になる。 「元笠間県管内絵図」「泉県支配所磐城国菊多郡二十五ヶ村絵図」「磐城国磐前県下縮図」「磐前県管内七郡分図」「磐城国磐前県管轄第一大区小一区図」「岩代国若松県管内地理之図」「岩代国若松県第四大区全図」などであるが、その数は僅か十数点に過ぎない。
(阿部)
市町村史と史料
大信村史編纂と史料
西白河郡大信村の村史編纂事業は平成8年に始まる。同郡は寛保元年(1741)から幕末まで、越後高田藩の分領(飛領)下にあった。6月29日、大信村史編纂室は新潟県の上越市史編纂室において、分領に関係する絵図①寛保3年(1743)「奥州御知行之図」(縦41・横56センチ) ②「磐城国白川郡岩代国岩瀬郡麁絵図面」(縦107・横99センチ)を調査した。①は分領の岩瀬・石川・白川・田村四郡内の村々を高田藩領・白河藩領・他領ごとに色分けした絵図である。磐城・岩代は明治元年(1868)以降の国名であるから、②は府藩県三治制(高田分県)関係の絵図であろう。絵図表題は二郡であるが、岩瀬・石川・白川三郡を描く。郡内の村々は高田藩領と他領に色分けされている。
今回調査対象となった絵図2舗は近世後期から幕末に至る越後高田藩分領の推移を検証する上で極めて重要な絵図といえよう。
(阿部)
県歴史資料館のコーナー
新公開史料
早田伝之助家文書
半田銀山は幕府直営(桑折代官所管轄)の鉱山であった。伊達郡北半田村(桑折町)は銀山のある半田山の山麓に所在している。早田家は同村の名主。幕末には、幕府の手元を離れた銀山の経営に関与している。早田家文書は約1900点。今回、天保~慶応年間の近世文書1075点が閲覧可能となった(収蔵資料目録第33集、収録)。文書群は①村役人関係②地主・金融関係③銀山関係に大別することができる。特筆すべきは②の金融である。北半田村を含む近隣の村々が早田家に宛てた無尽金借用証文は約150点。年貢上納難渋・諸品入用などを理由とする金子借用証文は約580点である。借用証文は文書群の約7割を占める。近隣の村々にとって、早田家は村運営と村民生活に不可欠の金融機関でもあったと思われる。残部は第34集に収録予定。
(阿部)