福島県史料情報 第10号
『奥州会津戸口十六石橋之全図』
文化6年(1809)『新編会津風土記』は猪苗代湖北西部、日橋川に架かる十六橋について、「昔十六断ありと云、」「天明六年これを修造し、今は長四十八間、凡二十三断の石橋となり、左右の勾欄まで皆石にてつくれり、同八年其功成る」「側より望めば二十三橋相連属して、一大橋を架するが如くにして極て奇功なり」「此橋は府下より二本松猪苗代に通る裏街道にして往来多し」と述べている。
それによれば、十六橋は天明8年(1788)23の橋脚からなる石橋に改修された。湖畔に映える十六橋は景勝の地となっていた。若松城下や二本松に向かう旅人が橋上を頻繁に往来していたことが判明する。
当館保管の内池輝夫家文書は十六橋の鳥瞰図を2点収める。
1点は改修前、往時の十六橋を描いた年月不詳『陸奥国会津戸ノ口拾六石橋図』(手書き彩色、30.3cm×43.5cm)。
もう1点が写真の鳥瞰図である。西方上空から斜め下方を見下ろすように、改修後の十六橋とその周辺の景観を描く。本図からは、十六橋に関わる多様な情報を読取ることができる。橋上を往来する旅人、十六橋を取水口とする東堰・西堰。橋の袂の「橋本茶屋」。
『新編会津風土記』は戸口村が赤井村の岸辺に設けた船宿を「赤井村の境内湖浜に家二軒を営み船宿とす、江戸に米を運送する為に設く」と記す。その船宿が手前の「向戸口船問屋」である。停泊する数艘の帆船。十六橋背後の景観は戸口村の集落と地蔵堂・貴船社・鬼渡社・磐梯山・名倉山。往還は集落を抜けて山向こうの猪苗代方面に延びる。湖中の小島は翁島である。右隅の余白には、雪を被る冬の翁島が風情ある景勝地となったことも記載されている。翁島の遠方、湖上の帆船は帆に風を受け周航する。
本図は失われた湖北の様相を良く伝えており、極めて貴重である。
(阿部俊夫)
公文書等の保存に関する館長親書
「平成の大合併」が叫ばれ、全国規模で地域の再編が進行しています。福島県も例外ではなく、すでに会津若松市と北会津郡北会津村が合併し、平成16年11月17日現在、12の法定協議会と2の任意協議会が設置され、各地域のあり方が検討されています。
過去にも「明治の大合併」「昭和の大合併」と呼ばれる地域の再編がありました。そのとき、多くの公文書等が廃棄され、散逸したといわれています。地域の史料を失うことは、地域の歴史を失うことでもあります。
当館では、この度の地域再編における公文書等の廃棄・散逸を危惧し、合併を控えた各市町村長・議会議長・教育委員会教育長に対し、館長親書の形で公文書等の保存を要望いたしました。
拝啓
ますますご盛栄のこととお慶び申し上げます。日頃から当館の運営につきまして大変お世話になっており厚く御礼を申し上げます。
ところで、テレビ、新聞等によりますと、貴市(町村)の合併が具体化し、平成17年3月1日に新しく生まれ変わると、うかがっているところであります。
顧みますと、昭和30年代にも「昭和の大合併」と言われ多くの市町村が合併し、現在、発展、繁栄を遂げているわけですが、当時、合併事務等の忙しさから、多くの市町村で不要になった大量の公文書が、廃棄されたり、放置されて散逸してしまった市町村がありました。そのため後世において、合併以前の地域の歴史を知る手がかりを永久に失ってしまった事例がございました。
言うまでもなく、市町村の公文書は、明治、大正のほか激動の昭和期、とりわけ戦後の高度成長などの地域の歴史を解明する貴重な歴史資料であり、地域住民共有の財産でもあるわけです。
ところで、「公文書館法」(昭和62年法律第115号)の第3条によると、「国及び地方公共団体は、歴史資料として重要な公文書の保存及び利用に関し、適切な措置を講ずる責務を有する」と規定しており、地方公共団体における公文書保存の責務を明確にしております。また、全国の公文書館、歴史資料館からなる全国歴史資料保存利用機関連絡協議会(全史料協)では、総会において「市町村合併における公文書の保存を求める声明」を協議し、平成15年8月1日付で、その声明文を、全国各市町村長等に送付し公文書の保存を呼びかけてきたところであります。
当歴史資料館は、昭和45年に開館し、福島県に関する歴史的価値のある古文書・公文書・考古資料・民俗資料・文献等の調査研究・収集・整理保存等を行い、現在の収蔵点数は約二十三万点にものぼっております。その収蔵資料の中には、今の福島県の前身である福島、若松、磐前の三県合併の右大臣岩倉具視からの通達「官省達」(明治9年)や、合併前の「磐前県日誌」(明治6年)等々があり、当時の本県の歴史を後世に伝えるとともに、これら資料の閲覧・利用と学術に供し、県民文化の振興発展に寄与しているところであります。
今、私たちがそれらの資料を見るにつけ、先人達が「いつか後世のために役に立つのでは」、との想いで残したすぐれた先見性と偉大さに頭が下がる思いがいたします。どうか、貴市(町村)の貴重な地域の財産である公文書等を散逸することなく、空き教室などを利用し後世に保存していただくようお願いをいたします。
差し出がましいこととは思いましたが、いま、「お願いしないと」、という切迫した想いでお手紙を差し上げた次第であります。どうかご理解いただきますよう、よろしくお願いいたします。時節柄どうぞご自愛下さい。
敬具
平成16年11月 日
福島県文化振興事業団 常務理事
兼福島県歴史資料館 館長 長谷川文夫
各市町村長 様
各市町村議会議長 様
各市町村教育委員会教育長 様
『発見された法用寺縁起絵巻』
現在開催中の「江戸人の奏でる調べ~時空を超える音色~」の展示史料調査の過程で、長年その所在が不明であった『法用寺縁起絵巻』の良質の彩色写本を行政文書から見出した。
これまでは墨色の会津若松市立会津図書館本のみが知られていた。雷電山法用寺は大沼郡会津高田町雀林にある天台宗の古刹である。
その縁起は明治29年(1896)福島県作成の『明治廿九年古社寺名所旧蹟碑碣寳物関係書類』二ノ二(福島県庁文書1837)に法用寺取調書の別紙第三号の宝物として40丁綴られており、員数は1軸との記載がある。元綴じ穴から県庁文書に編綴し直された際、絵巻の冒頭部分に錯簡が生じたらしい。同取調書の内容は所在地・寺名称・本尊・建物・境内地・永続基本財産・宝物・絵図面等で、福島県大沼郡赤澤村役場罫紙に書かれている。
同書によると、絵巻の原本は明治2年旧正月に若松民政局が実施した社寺重宝物調査に提出され、法用寺の住職祐傳が同年2月に他界してしまったので檀頭総代も縁起のことを気に留めずに時が流れた。それ以後の重宝調査の過程で、所在が不明であると判明し、本山の世良田長楽寺住職や村挙げて探したものの未だ発見には至っていない。右のような経緯を赤澤村は福島県に報告したのである。民政局の調査は社寺方で行われたと考えられ、また法用寺仏堂取調書には板行された略縁起も付されている。
明治11年に法用寺住職・檀中総代等から福島県に上申された文書には「什寳物」として縁起が記載されていないことも右の事実を裏付けている(『岩代国大沼郡寺院明細帳』二ノ一)。さきの上申書が功を奏したのか、明治30年段階での法用寺の宝物第一七号として縁起が載せられ、「紙、一軸、画工不詳、養老四年(七二〇)當寺創立以来ヨリ傳ハル、竪一尺、横巾三丈九尺」(『明治卅年現在社寺寳物調』、福島県神社庁文書35)とその形状や法量まで記載されているのである。
(渡辺智裕)
文書と表紙
今回も、福島県神社庁文書の見直しを行なうなかで、気がついた事柄について述べることにしたい。
同文書が本来、福島県庁文書の一部であったことは、両者の形態からも明らかである。いずれも、一件一件の書類を綴り合わせた「簿冊」と呼ばれる帳面により構成され、表紙や背表紙の書き方も共通している。
たとえば、表紙については、写真上のように、右部に年代、中央に表題、左部に県名(もしくは担当部課名)を墨書する形式が一般的である。ところが一方で、横書の表紙(写真下)が存在していることをご存知だろうか。こちらは五段構成で、上部より順に、年代・種別・文書番号・表題・県名が記されている。
この「横書表紙」は点数としては決して多くはないが、興味深い特徴を指摘することができる。それは、数字と表題以外の項目がすでに印刷されているという点である。編綴担当者が独断で台紙を作成するはずはないので、県の文書処理規程に基づく措置と考えられる。
そこで改めて、それらの簿冊に注目をしてみると、まず年代は大正期に集中し、明治期と昭和期のものは見当たらない。また、内容は、官国幣社・寺院仏堂・県社以下神社の三種に限られていた。このように記すと、「横書表紙」は大正期の社寺関係簿冊の一部にのみ用いられた、という印象を抱くかもしれない。
しかし実際には、「明治・大正期の福島県庁文書」にも、若干ではあるが存在している。それらは年代においてはほぼ同一であるが、内容に関しては勲章及恩給・郡市町村廃合関係など多岐に渡る。また一方では、大正期でありながら、通常の墨書・縦書による簿冊も少なくない。
この問題について、現時点で結論を出すことはできないが、「横書表紙」の存在が、これまで不明な点の多かった本県の文書処理過程の解明にあたって、重要な糸口となるような予感を覚えている。
(山田英明)
講演報告
平成16年度図書館業務研究協議会が去る12月3日福島県立図書館において「これからの資料保存―地域資料を中心に―」というテーマにより、県内の公共図書館・公民館職員が出席して行われた。その講演として「地域資料の収集・保存・提供 過去から未来へひきつぐ」と題して話をさせていただいた。また県立図書館の地域資料チームの辺見さんから「市町村合併に伴う地域資料(郷土資料)と公文書類の収集と保存について」の報告があり、休憩のあと情報・意見交換会が行われた。
講演は、地域資料の収集の意義について、とくに公文書は歴史資料的価値として地域住民の共有の財産であること、収集における選別の基準について、保存法と公開に伴う個人情報の取り扱いについて等を話し、アンケート結果に基づく具体例について意見交換を行った。どのような地域資料や公文書を保存したらよいのか、収集範囲は自治体内だけでよいのか、保存期間をどのようにしたらよいのか、新聞切り抜き・折り込みチラシの保存法、デジタル化やインターネットへの公開などにあたっての注意点など課題が出された。
(村川友彦)
展示のご案内
当館では12月10日(金)より収蔵資料テーマ展「江戸人の奏でる調べ~時空を超える音色~」を開催いたしております。これは今年度上半期に担当した収蔵資料テーマ展「暮らしの中の花」をうけての企画です。
展示は、テーマ別に祭礼の調べ・楽しみの音色・祈りの調べ・西洋音楽の伝来の4つから構成されています。ここでは展示資料の中でも珍しいものを紹介いたしましょう。
・御能の図絵馬 元禄8年(1695)11月吉祥日、1面、福島稲荷神社蔵。福島市有形民俗文化財。
福島藩主・堀田正虎(1662―1729)が福島稲荷神社に奉納した絵馬で、描かれた演目は「富士太鼓」といわれています。能舞台が画面いっぱいに描かれ、舞台中央には太鼓が置かれています。向かって左手には翁面をつけて太鼓を打ち鳴らす者、右手には女の面をつけた者が片膝を立てて控えています。さらに横笛を吹いたり、鼓・小太鼓を打つ囃子方と、謡いあげる地謡方が描かれています。絵画表現に優れ、動と静をも見事に描写しきっています。
・免許之事 寛政4年(1792)正月吉日、原本、1通、堀切真一郎家文書。
北村検校門人の松都が堀切お俊(女性)に与えた箏の免許状です。雲上・薄衣・桐壺など裏組七曲のうち三曲について、八段・乱輪舌の調子を免許皆伝しています。堀切家は江戸時代に信夫郡上飯坂村名主を務め、酒造業や塩・漆・米などの仲買をも営んでいました。当時の大名主にとって、箏曲の習得は華道や茶道とならぶ大切な教養の一つでした。
・『神事行燈』初編 文政12年(1829)4月8日、板本、1冊、内池輝夫家文書1934、写真。
大石真虎(1792―1833)画の絵入り川柳書。義太夫節や雅楽などの様子が漫画風に描かれています。音色や歌声が聞こえてきそうです。題名が示すようにすべて暗闇を行燈で照らす構図になっています。
・『肥後国五箇荘日記』 天保15年(1844)9月、写本、1冊、広瀬静樹家文書(その1)143。
二本松藩の吉田守礼が写したもので、肥後国五箇荘(現・熊本県八代郡泉村東部)の景観・風俗・動物などが描かれています。同荘内の久連子村での盆踊りの場面では、村人が山鳥・雉の尾羽や熊・羚羊の毛をあしらった笠を被ったり、太鼓を敲きながら楽しそうに踊っています。
会期 12月10日(金) ~平成17年2月13日(日) 前期 12月10日(金)~1月16日(日) 後期 1月18日(火)~2月13日(日)
開館時間 午前9時~午後5時 (入館は午後4時30分まで)
休館日 毎週月曜日(祝日を除く)、12月28日(火)~1月4日(火)、1月11日(火)
入場料 無 料
展示説明会 12月11日(土)、25日(土)、1月10日(月)、29日(土)、2月12日(土)午後2時から