福島県史料情報 第24号
上杉景勝の首都機能移転事業
「神指城跡地籍復元図」(明治15・18年の地籍図をもとに作図)
神指城(こうざしじょう)は、会津120万石を領した上杉景勝が、若松城に替わる拠点として、慶長5年(1600)に築いたものです。本紙では、「地籍図に見る神指城」と題し、過去3回にわたり連載を行ってきました。これまでの検討により、神指城跡の旧状をかなり読み解くことができました。今回は、その意味するところについてお伝えしたいと思います。
地籍図調査と発掘調査の成果を総合すると、「本丸」を取り囲む堀の掘削は、全く中途半端な状態にとどまっていたことがわかりました。堀が完成していないということは、その掘削土で構築する土塁も未完成だったことを示唆します。また、「本丸」の中に御殿などの基礎工事を実施したような痕跡も認められないことが判明しました。さらに、運河や城下町の整備に着手した痕跡も認められません。近世城郭としては、計画の10分の1にも至らない段階で築城が中止されたのではないかと思われます。
これらのことから、この築城は、数カ年以上の長期計画で立案された一大事業だったことがわかります。徳川家康によって「上杉逆心」の口実に利用された神指築城でしたが、少なくとも徳川軍との戦闘を想定した短期的築城ではなかったことが証明されました。会津の地に根を下ろす覚悟を決めた上杉氏が、旧慣の残る若松城下から離れ、領国の首都機能移転を図ったプロジェクトだったと考えられます。
地籍図・地籍帳・丈量帳の検討により、はからずも会津における上杉氏の意図を推測する手がかりが得られました。神指城は、家臣団・寺社・農民・商業資本・職人らを組織的に支配する行政機構の政庁となるはずだったのでしょう。
(本間 宏)
岡左内の名乗りと花押
「松原寺保管文書475号」
慶長3年(1598)正月10日、豊臣秀吉は重臣間の内訌により蒲生秀隆(秀行)を会津から宇都宮へ移封した。替わって上杉景勝は、秀吉の命により越後から会津120万石の大名として入部したのである。
上杉家中は、主に越後の上田衆・与板衆・揚北衆がその中核をなしていたが、他の豊臣大名と同様に多くの他国衆を家臣として召し抱えていた。例えば、西安達代官石栗長広は甲斐国、梁川城代須田長義や白河城代平林正恒は信濃国出身であった。蒲生氏郷以来の家臣でありながら秀行のもとを辞し、新たに入部してきた景勝に仕官する者も多数存在していた。ここでは、その代表的な1人である岡左内について紹介する。
写真は、慶長2年5月20日付蒲生秀行家奉行人連署裁許状(松原寺保管文書475号)に据えられた岡左内の名乗りと花押である。岡は上杉氏の分限帳などでは岡野と記されることもあり、石高は4,200石であった。これまで左内の名乗りがイ休であることやこの時期の花押形は知られていなかった。このような名乗りは当時の社会では類例がなく、左内がキリシタンであったことを考えると、洗礼名に関連する可能性も否定できない。また、花押はきわめて簡略な形であるが、OとKを横倒しに組み合わせたものとも見える。
この文書には左内の他に梅原智是・玉井貞右・関元吉・蒲生郷雄ら蒲生秀行の奉行人が署判している。文書の内容は、松原村(伊達郡桑折町松原)肝煎百姓に対し、湯野村(福島市飯坂町湯野)との野中山をめぐる相論について松原村側の主張を全面的に認めたものであった。
慶長5年10月6日の宮代(福島市宮代)の合戦で、蒲生秀行の旧臣では安田勘介吉次・桑折図書・布施二郎右衛門・北川伝右衛門・武田弥之介が伊達政宗方に討ち取られ、岡左内・長井善左衛門・青木新兵衛・才道二などは危うく難を逃れたという。
なお、『東国太平記』では、左内は経済力のある武勇に秀でたキリシタン武将として描かれており、左内に対する作者の眼差しは好意的である。なお、左内は慶長6年8月、秀行が宇都宮から再び会津に封じられると、景勝のもとを離れ、秀行の家臣となったのである。
(渡邉智裕)
檜枝岐村絵図について 1
「檜枝岐村絵図」(部分)
檜枝岐村文書は、江戸時代に檜枝岐村名主であった星家の文書が檜枝岐村教育委員会に引き継がれ、教育委員会から当館に寄託されたもので、総点数は1,641点ある。
檜枝岐村は、寛永20年(1643)から南山御蔵入として会津藩主の保科家が管理、元禄元年(1688)に保科正容の代で御蔵入の地を返上したことで幕府直轄地となった。檜枝岐村はロウや材木の生産地であったため、沼田街道の領地境には口留番所が設けられている。古文書を引き継いだ星家は、口留番所の役人を勤めていた。
今回檜枝岐村絵図を取り上げた理由は、そこに、尾瀬沼そして尾瀬ヶ原一帯を含む、現在で言う「尾瀬国立公園」エリアのことが記されているからである。
尾瀬の周辺はいつ頃の時代から人々に知られるようになったのか、江戸時代の人々は尾瀬ヶ原周辺のことをどれだけ知っていたのか、そういう視点も含めて絵図を紹介したい。
村絵図 萬治4年(1661)
最も古い村絵図である。萬治4年は4代将軍徳川家綱の治世、会津藩初代藩主保科正之の時代で、南山御蔵入として会津藩主の保科家が管理していた時代でもある。
絵図は墨一色で、朱書きなどは見られない。比較的大雑把な筆致で、下描きの可能性もある。絵図は阿賀川の支流実川(現在の檜枝岐川)を軸に描かれている。
尾瀬沼周辺は、「尾瀬沼」と「尾瀬原」そして尾瀬沼の北に「ひうち山」(燧ケ岳)、西に「志佛山」(至仏山)が記され、東側には「赤安山」も記されている。尾瀬沼に注ぐ五本の川も描かれているが、名称は記されていない。
実川の下流には「檜枝岐村」と記されている。さらに、檜枝岐村から帝釈山の南側の峠を越えて日光市に至る道も描かれ、「大とうげ」「小とうげ」などと記されている。
この絵図を見る限りにおいては、江戸時代の初期には、既に尾瀬沼一帯は人々に知られていたと言えよう。
(山内幹夫)
明治時代の国語教科書
「小学読本 巻三」
近代的な教育制度がスタートした明治初期には具体的な教育内容を示す教科書をどうするかが大きな問題になり、当面は欧米の進んだ教科書を取り入れることになった。写真の挿絵は、文部省が明治7年(1874)に刊行した「小学読本 巻三」(斎藤文郎家文書67)に掲載されたものである。この教科書は当時アメリカで最も普及していた英語の教科書「ウィルソン・リーダー」を和訳したもので、タイトルにある「読本」も「リーダー」の和訳である。文章は翻訳調で、挿絵も写真のように異国風なものが使われている。当時は教科書のスタイルが定まっておらず、民間発行の読み物等も自由に教科書として選定されていた。
明治19年(1886)、民間発行の教科書に対しては文部省が各道府県に配置した審査委員を通じて検定を行い、採択する制度に代わった。これによって字体や用語が次第に統一され、内容が整備される等、教科書の質が向上した。「尋常小学国語読本 巻之一~六」(斎藤文郎家文書69~74)は検定制度が始まった直後の明治20年(1887)に刊行された教科書である。尋常小学校1年~4年まで使用するようになっており、児童の発達段階に即して教材を配列し、編集している点がそれまでの教科書とは大きく異なっている。文章は口語体を多く取り入れており、読みやすくなっている。「小学国語読本」(斎藤文郎家文書57~61)は明治33・34年(1900・1901)に刊行された教科書である。日清戦争後に刊行されたため、威海衛での清国北洋艦隊との戦い、軍艦、兵隊等、戦争に関する記述が目立つ。また、この頃に定着してきた郵便、電信に関する記述もあり、当時の世相が反映されている。
明治30年代になると、民間の教科書会社による採択の働きかけや売り込み活動が激しくなり、不正行為も行われ社会問題化した。そのため、明治36年(1903)、国の権限で教科書の編集・発行を行う国定教科書制度に改められ、文部省著作の教科書が太平洋戦争の終戦まで使われた。
(小暮伸之)
県庁文書にみる川漁
「免許漁業」にみる「簗」
近年、福島市内を流れる阿武隈川では、ブラックバスのルアーフィッシングを楽しむ人の姿をよく目にします。100年ほど前には、今とは異なる人と川との関わりがあったようです。そのことを、当時の県庁文書から知ることができます。
当館には、明治35~43年度の県庁文書「定置漁業免許」、「免許漁業」が保管されています。これらは、大掛かりな漁法や、漁場の範囲などの許認可に関する公文書です。この記録を見ると、近年ではあまり採られなくなった方法や、あるいは都市化が進んだ場所での川漁の様子を、伺い知ることができます。例えばそれは、阿武隈川での簗漁です。
簗漁は、木や竹で作ったスノコ状の簗(やな)に水の流れが集まるよう川を遮り、上流から下ってきた魚を捕らえる方法です。明治時代には、現在の福島市や郡山市近郊でも、盛んに簗漁が行われていました。簗場の設置に関する申請書には、簗を作るのに必要な資材の種類と数量、人件費などの一覧とともに、簗の設計図および完成想定図が添えられています。これらの図を見ると、川岸の風景や、青々とした水の流れに投網を打つ人の姿などが描かれ、当時の自然豊かだった阿武隈川の姿が想像されます。写真の図は、明治38年に、安積郡山野井村大字高倉に設置許可を求めた際のものです。この場所は、阿武隈川と五百川の合流点近くに当たるようです。申請書には、アユ、ナマズ、ウナギ、コイ、フナなどの漁獲対象魚が挙げられています。多様な魚が生息していたことは、阿武隈川が瀬と淵の揃った健康な川であった証拠と言えるでしょう。
また、今では考えにくいことですが、尾瀬沼で漁業が行われた記録も残されています。尾瀬は昭和28年に日光国立公園特別保護地区に指定され、昭和42年には、尾瀬沼でのボート及び釣りが禁止されました。明治39年の記録では国境を超えない範囲での尾瀬沼における「漁業免許願」が出され、許可されています。漁法は2艘の舟による「曳き網」で、漁獲物は嘉魚(イワナ)、フナと記されています。
(今野 徹)
平井氏オスカー・ワイルド関連資料
福島県歴史資料館には、福島県文化センターの初代館長を務めた平井博氏(1910~1980)から寄せられた資料が一括して収蔵されている。平井氏は明治43年に熊本市で生まれ、弘前高等学校、東京帝国大学文学部を卒業。文部省専門学務局に勤めた後、昭和17年(1942)に福島高等商業学校教授に就任した。その後は、福島大学で教鞭をとる傍ら19世紀にイギリスで活躍した劇作家オスカー・ワイルドの研究を進め、昭和45年(1970)福島県文化センターの初代館長に就任した。収蔵資料は、オスカー・ワイルドに関する邦文文献を中心に、文献カード、著作の原稿、NHKラジオ番組の放送台本、講義ノート、論文等、充実した内容を持ち、当時研究の第一人者であった平井氏の貴重なアーカイブズである。
オスカー・ワイルド(1854~1905)は、当時のイギリス社会がタブー視していた同性愛、異常心理等をテーマにした作品を数多く残し、自身も同性愛がきっかけで逮捕され、貧困の中パリで死亡した。その生涯が波乱に満ちていたため、死後に出版された書物の中には贋作が数多くあると言われている。平井氏は疑問作と言われた作品について、作品の素材、時代背景、文体、出版の状況等を丹念に精査し、真贋を鑑定している。これは多くの書籍を読みこなし、作品の要所をしっかりと把握していなければ決してできない困難な作業である。当館に収蔵されている邦文文献の多くには細かいメモが書き込まれている。写真は代表作「サロメ」を和訳した「サロメと遊君マーリーナ」(平井博氏文書117)の表紙である。「サロメ」は西暦30年頃のエルサレムを舞台にした、王女サロメの愛情と葛藤を描いた作品である。聖書の人物を舞台に登場させてはならないという当時のイギリスの法律を破っていた上、聖者の生首にキスするというショッキングな場面があることから上演許可が下りなかった。日本では大正時代にワイルド作品がブレイクし、多くの訳本が出版されている。平井氏は鶴屋南北の歌舞伎「東海道四谷怪談」等で血生臭い場面を見慣れていた日本人には受け入れやすい気質があったと述べている。
(小暮伸之)