福島県史料情報

福島県史料情報 第39号

道中記・案内記にみえるふくしま

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いつの世も我々を惹きつけてやまない「旅」が、庶民にとって身近な存在となっていったのは、江戸時代以降の事である。そして、江戸時代中期以降、伊勢や金毘羅、全国各地へと旅する人々が増えていくことに合わせ、旅を支えるものとして街道・地理関係・順路・名所を解説する道中記・案内記が各種出版されるようになっていく。
 そんな折、弘化2年(1845)に、京の竹原好兵衛が板元となり、江戸・尾張・京阪などの計8軒の共同出版・取次により刊行・販売されたのが、北は函館から南は鹿児島までの日本地図が横長に描かれた『弘化改正 大日本道中獨案内大全』(38×150㎝、畳物)である。上図は現在の福島県の部分を中心に取り上げたもので、北を右又は右上にして描かれており、中央を左から右に走る黄色太線が奥州街道(仙台・松前道含む)、黒色細線が脇街道を指している。街道沿いに並ぶ黄色四角と白色小判は、それぞれ城下町(或いは陣屋)と宿場町の名が記されており、奥州街道沿いの中央付近にある黄色四角が「二本松」、右に続く黄色四角が「福島」「桑折」といった具合である。
 さらには、各地の名所・寺社について、赤色丸や挿絵などで記載されており、ふくしまについては、「タテノ大キト(伊達の大木戸)」「もちすり(文知摺観音)」「しおはま(松川浦)」「あたミのゆ(磐梯熱海温泉)」「あかぬま(赤沼)」「いなハしろうミ(猪苗代湖)」「三箱のゆ(いわき湯本温泉)」「柳つ(柳津円蔵寺)」など、古代・中世からその名が知られた地や松尾芭蕉が立ち寄った地などが記されている。
 記載内容に誤りも見られるものの、各種道中記・案内記からは、当時のふくしまに対する認識の一端を読み取ることができる。

(小野 孝太郎)



飯坂ゆかりの謡曲「摂待」

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摂待(『観世流謡外百番』十三、内池輝夫家文書1928号)

「黒塚」(観世流では「安達原」)は福島県内を舞台とした謡曲としてよく演じられ、比較的知られた演目である。それに対して、「摂待」と聞いてそのストーリーを思い浮かぶことができる人は少ないであろう。
 「摂待」は15世紀前半頃に成立した謡曲で、四番目物にあたる。この演目は、室町時代の能作者宮増によって創作されたものといわれ、足利義政期の寛正5年(1464)に上演された記録が残っている。
 左の図版の「摂待」は『観世流謡外百番』20冊のうちのひとつで、元禄3年(1690)6月に京都二条通御幸町西江入町の山本長兵衛によって刊行された新板である。これは信達地域を代表する国学者の内池永年の旧蔵書で、永年は天保9年(1838)2月にこれらを収納する木箱を調製している。また、永年は「摂待」が地元ゆかりの演目ということもあってか、深い関心を寄せており、京都の片山九郎右衛門の門人で近江八幡の江南八良兵衛所持本によって享和2年(1802)10月と天保9年4月30日の二度にわたって朱筆で詳細な書き込みをしている。
 「摂待」の梗概は以下の通りである。山伏姿に身をやつした源義経(ツレ)主従12人は、東路を目指して下る途中、信夫の里にある佐藤氏の館(福島市飯坂町)で山伏接待の高札を見付け、出迎えた鶴若(子方)を佐藤継信の子であると気付くが、何も言わずに宿をとる。老尼公(シテ)は佐藤元治後家で継信・忠信の母と名乗り、接待を始めた訳を語り、彼らの消息を尋ねる。弁慶(ワキ)は讃岐国屋島(香川県高松市)での継信の最期と忠信の奮戦の様子を語る。また義経は継信の遺言を伝え、義経も源頼朝から追われる身となったことを嘆く。老尼公は主従一行に酒を勧め、鶴若はお供を願い出るが、弁慶に説得され、一行は後ろ髪を引かれながら宿を後にする。
 「摂待」は文学作品であるが、地域ゆかりの演目として広く知られて良いものであろう。

(渡邉 智裕)



江戸時代の情報伝達―会津若松の安永の大火―

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『会津御城下出火之節火元附絵図』(小川清士家文書7号、部分)

会津若松は、江戸時代を通して幾度も火災に見舞われているが、とりわけ安永の大火は大きな被害をもたらした。会津藩の正史である『家世実紀』によれば、安永2年(1773)6月5日昼八ツ時(14時頃)に竪三日町治右衛門宅から出火した火災によって、1670軒の家屋敷が焼失したと伝えられている。
 左の絵図は、会津若松馬場二之町居住の小川長兵衛が、兄で福島藩板倉家の御用達も務めた福島の豪商・小川佐次兵衛に、大火の概要を報じたものである。
 絵図は北を左側にして若松城下が描かれ、右手に若松城、中央のマス目区画が町人地で、焼失地が朱色を塗り重ねて記されている。また、火元(図中央最上部区画)は三角で印付けられており、激しい東風にあおられて、差出人の長兵衛宅・槌屋(小川家屋号)の本家(図中央)を含む西側に広く火の手が広がったことが分かる。さらに下部では、被害状況について、「かまと(竃)数三千三百拾七軒、落土蔵百弐拾餘、死人四拾人程」などとこれまで未詳であった事項についても記している。
 記載内容に加えて、早急に絵図を作成し報じたことからも、安永の大火が非常に大きな災害であったことが窺える。公的な一次史料ではなく、正確性を考慮する必要があるものの、庶民の情報収集・情報伝達の力を物語る史料である。

(小野 孝太郎



『祐天大僧正利益記』について

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祐天大僧正之真(『祐天大僧正利益記』巻之上

祐天(1637―1718)は江戸時代前期から中期にかけて活躍した浄土宗の高僧で、東京都目黒区にある浄土宗の明顕山善久院祐天寺の開山としても知られている。祐天は、寛永14年(1637)4月8日に陸奥国磐城郡仁井田村(いわき市四倉町上仁井田)の新妻重政の子として生まれ、法諱は祐天、法名は明蓮社顕誉愚心という。
祐天大僧正之真(『祐天大僧正利益記』巻之上)
 ここで紹介する『祐天大僧正利益記』(佐藤巌家文書5号)は、同じく磐城郡出身の弟子祐海の手になり、その後浄土宗の僧侶祐全によって補訂され、文化5年(1808)に明顕山蔵版として3巻3冊で版行されたものである。序文は文化元年7月に増上寺大僧正香薫在禅が寄せており、跋文は文化3年春に幡随院主運誉観善によって記されている。同書の内容は、祐天の名号の利益と人々の信仰にまつわる霊験譚からなり、51条が載せられている。巻之中には、「岩城の漁父得益の事」という以下のような霊験譚が収録されている。
 元禄9年(1696)6月中旬に大風が俄に吹き荒れ、神社・仏閣・官家・民屋を吹き倒した。舞い上げられた塵埃が空を覆い、白昼なのにまるで闇夜のようであったという。奥州岩城の浦々では、多くの漁船が吹き流され、行方不明になる船や岩に当たって破船するものもあった。これによって多くの漁師が妻子を残して亡くなったのであった。
 太兵衛の船も流されたが、風が収まって3日後に岩城に帰還することができた。不思議なことに船は少しも損傷した箇所がなく、また乗組員は全員無事であった。太兵衛は、多くの漁船が被害にあったにもかかわらず、自分の船だけが難を逃れた理由は日頃より信仰する祐天の書いた名号の御利益であると考えた。襟掛けの御守り袋を開いてみると、表装は何ともなくて名号の六字は水に浸したようになっていたという。
 この話は江戸時代の漁船や廻船が直面していた漂流という過酷な現実を物語っており、同書には安房・伊豆・紀伊などでの漂流事例も散見されている。このように霊験譚の中にも当時の社会的な事実を掬い取ることができるのである。

(渡邉 智裕



銅版画に描かれた福島の信夫橋

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『福島信夫橋真景』(内池輝夫家文書2500号)

「真景」とは、実際の景色の事である。描かれている信夫橋は明治18~24年の間に存在した信夫橋の姿であり、図中に「福島県 岩代国 信夫郡 福島信夫橋真景 長一〇六間(約191m) 幅四間」(約7m)と記されている。
 現在も信夫橋は、荒川(阿武隈川支流)に架かる橋で、現福島県道148号水原福島線(旧国道4号・通称旧4号)の主要幹線道路である。
 橋の北岸は福島市柳町、南岸は同市南町であり、荒川と阿武隈川の合流点付近に位置し、当時と同じ場所に掛けられている。
 江戸時代から明治初年頃は、須川の渡しと呼ばれ、馬や舟または、川人足による渡河の方法が採用されていたようである。明治6年(1873年)に木製橋が架橋され、この時に「信夫橋」と命名されている。
 明治16年(1883年)の豪雨による河川の氾濫により流失したが、当時の県令であった三島通庸により、明治18年(1855年)に石橋に架け替えられた。その石橋が図に描かれている13連の眼鏡橋として有名な信夫橋である。
 図中の橋上には、往来する人々や馬車、人力車、物売りであろう天秤棒を担ぐ人、川面には、船で往来する人々や、舟釣りを楽しむ人が描かれ、当時、船橋であった松齢橋の先には県庁・県会議事堂・信夫郡役所・病院・小学校と市街地の中心部が描かれている。また、現在の福島市の景観を代表する、信夫山、吾妻小富士なども描かれている。擬宝珠が設置された橋の欄干には信夫橋の名も確認される。
 しかしこの美しい信夫橋も架橋から6年後の明治24年(1891年)記録的な増水でまたも流失してしまう。その後は現在のような鉄筋とコンクリートによる橋に姿を変えている。

(佐々木 慎一)



旧制会津中学校の日露戦争軍資金献納 

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『時局ニ関スル調査』
(明治・大正期福島県庁文書F1069号)

「我会員諸子よ ボァチールの風死して亜刺比亜民族は剣とコーランとを」で始まる県立会津中学校校友会誌『学而会雑誌』第3号(明治37年3月31日発行)の巻頭言は、県内の旧制中学校校友会誌の中でも筆頭の格調高い名文として評価を与えることができる。日露戦争勃発時の旧制中学生が書いた文章の最後には、校友会誌の発行を中止して、余った費用を戦争の軍資金として献納することを全校生徒に告げている。県立中学校唯一の軍資金献納は『会津高等学校百年史』(平成3年3月発行)の中でも、明治37年度の特記事項として取り上げられている。
 では軍資金は、どこへ、いくら献納されたのであろうか?これを裏付ける史料が当館に収蔵されている明治・大正期の福島県庁文書の中にある。明治39年に編綴された『軍資金献納其ノ他』(1314号)の中に、明治37・38年代に福島県を通じて国へ献納された軍資金台帳が綴じられており、福島県立会津中学校学而会総理木村牧(顧問教師、旧斗南藩士)が軍資金100円献納を明治37年3月5日に出願して、同年3月9日に許可を受けていることが表で記録されている。これにより永く同校で県へ献納したと伝聞されていたことが事実であったことが細かい数字とともに裏付けられる。この簿冊は、台帳とは別に個人情報に係わる書類が綴られているため残念ながら閲覧禁止処置がなされている。今回、事の重要性から、所有者の福島県より該当する部分を参照して触れることを条件に許諾を受けて説明したことをお断りしておく。
 日露戦争に関しては、県内各地の町村が時局にそなえて戦時経営を初めとする14項目について、県ヘ報告させた史料が『時局ニ関スル地方ノ状況報告書』(明治・大正期福島県庁文書1067~1072)として当館に収蔵されており、一部は県内の市町村史に利用されている。この中に各町村の軍資金献納の記録が比較的多く記録されており、小学校児童や青年組織からの零細な献納の寄せ集めであったことが知られる。旧制会津中学校の事例は全国的にも数少ない中学校の献納事例であり、地域との関わり等様々な分析が今後の課題である。

(芳賀 英一)



平成26年度行事予定(平成26年7月~平成27年3月)

1.展示公開
『近世ふくしまの夜明け』
 江戸時代初期のふくしまにおける開発・産業振興・生業・流通・統制などに関する当時の古文書を展示し、江戸時代初期の地方支配のあり方や村落の実態について明らかにします。
【会期】平成26年7月12日(土)~9月7日(日)
【解説会】平成26年7月19日(土)・8月23日(土)
※時間は午後1時から1時間程度。

『行政文書の魅力』
【会期】平成26年9月20日(土)~12月23日(火)(予定)

『新公開史料展』
【会期】平成27年1月17日(土)~3月29日(日)(予定)

2.古文書講座
 武家の文書を読み解くと題し、計4回の講座を開催します。当館収蔵の武家の文書をテキストとし、江戸時代の武家文書の基本的な約束事や、大名間の交流・儀礼の実態について読み解いていきます。
【日程】第1回 平成26年7月5日(土)・第2回 7月26日(土)・第3回 8月9日(土)・第4回 9月6日(土)
【会場等】福島県文化センター2階会議室。資料代1,000円。時間はいずれも午前10時~12時。

3.フィルム上映会
 日本の伝統文化・歴史に関する作品を上映。会場は文化センター視聴覚室。時間はいずれも午後1時から。参加費は無料。
【日程・上映作品】
①平成26年8月31日(日)アイヌ生活文化再現マニュアル『編む サラニプ』・森のくらし第3章『編み組細工』
②同年10月5日(日)『景観の民俗誌 東のムラ・西のムラ』・戸隠 栃原 追通集落の小正月行事『セーノカミの勧進』

4.地域史研究講習会
 内容検討中。決まり次第当館ホームページにてお知らせします。
【開催日・会場等】平成26年11月8日(土)午前10時~、福島県文化センター2階会議室、要資料代。