福島県史料情報

福島県史料情報 第36号

県庁文書に残る岳温泉の原風景

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陸奥嶽山畧図、部分(『村界事件 其の他』、明治・大正期の福島県庁文書2207号)

全国的にもその名が知られている岳温泉(現二本松市)は、江戸時代後期以前は、現在の所在地よりも北西の鉄山山麓(現くろがね小屋付近)に所在していた。当地には温泉街が形成され、遠方からの湯治客も訪れる名の知れた温泉地であった。
 文政7年(1824)8月15日、連日の風雨に伴い発生した土砂崩れにより、岳温泉は一夜にして埋没。死者60名を越える大災害に見舞われる。翌年、山を下った十文字(現不動平)で岳温泉再興に至るも、その後も度重なる災害・人災に逢い、明治39年(1906)に現在の地に移るまで計三度の移転・再興を経ることとなる。
 当館収蔵の県庁文書『村界事件 其の他』(明治・大正期の福島県庁文書2207号)には、安達郡塩澤村と永田村(両村とも現二本松市)の境界事件が編綴されており、参考資料として江戸時代後期以前の岳温泉の姿を伝える絵図が収録されている。本図は、文政の土砂崩れの直後に、被害箇所記録のため二本松藩役人によって作成された絵図を、後に明治12年(1879)に永田村戸長が写したものである。本図右側の山には、「ヌケアト」と崩落箇所が記され、土砂崩れによる埋没箇所が朱引によって示されている。
 温泉街に目を向けると、「ヌケアト」の麓には温泉神社を思わせる「湯神」や、「瀧ノ湯」「小瀧」などの湯坪4ヶ所が見られる(別図には「仙臺や」に内湯1ヶ所記載)。さらに、中央には「松屋」「アイツや」「仙臺や」といった庶民向けの湯宿が並んでいる。また、中央を流れる川を挟んで左側には、二本松藩の「御殿小屋」や「ヨウ弓ハ(揚弓場)」、下部には、捕り物道具の突棒・刺又が立てかけられた「(湯守)番所」、「豆府や(豆腐屋・湯守商店)」が見られる。災害記録のための絵図ではあるが、本書にはかつての岳温泉の姿が残されている。

(小野 孝太郎)



キリスト教禁教制度と『切支丹類族存命帳』

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「転切支丹類族存命帳」表紙(渡部八郎家文書99)

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「転切支丹類族存命帳」見開き記述内容

江戸時代のキリスト教禁教については、ご存知の方も多いと思われる。江戸幕府は、キリスト教禁教を重視し、江戸時代初期から続く5枚の「大高札」の中で、キリスト教禁制について触れている。高札では、禁制に加え、「伴天連(ばてれん)」「イルマン」「立ち返り者」等の訴出に報奨金をかけて取り締まりを図っている。このうち「伴天連」「イルマン」は宣教師等のことであるが、最後の「立ち返り者」とは、キリスト教を棄教した者のうち、再びキリスト教へ改宗した者を指している。
「転切支丹類族存命帳」表紙(渡部八郎家文書99)
 幕府は、この「立ち返り者」の監視と統制を図るため「切支丹類族調」なる制度を採っていた。その中身は、キリスト教から改宗した「転(ころび)切支丹」の子孫・縁者の所在・生死などの台帳登録による監視であり、記載内容は定期的に幕府宗門改役へと報告された。
 藤生(とうにゅう)村(現南会津郡南会津町)の名主文書の中には、同制度の『転切支丹類族存命帳』が残されている(渡部八郎家文書99)。本書は、宝暦5年(1755)に、藤生村他5ヶ村名主が田島代官所へ提出したものの写しである。
 各項冒頭には、「転切支丹」となった本人の名前・村名が記され、続いて一つ書きでその子孫・縁者の名前・在村名・旦那寺・年齢・縁戚関係・死亡報告などが列記されている。5ヶ村では、男子35人・女子11人の計46人が報告されている。
「転切支丹類族存命帳」見開き記述内容
 本書以外にも、福島県内には多くの「切支丹類族調」に関する史料が残されている。キリスト教徒が、迫害・拷問などにより、棄教をやむなく受け入れさせられた後も、子孫に渡るまで、徹底したキリスト教禁教制度化に置かれていたことを物語る史料である。

(小野 孝太郎)



『福島きゅう城内立木明細調』にみる福島城の遺構

明治維新により、福島城の敷地と建物は、福島藩から朝廷に接収され、陸軍省の所轄となった。福島県は、旧城郭内の敷地を陸軍省から借地するとともに、同省仙台鎮台の了承を得て庁舎・学校等を設置するための現状変更を進めた。こうした経緯により、明治期の福島県行政文書の中には旧福島城に関する資料が含まれている。また、その主なものは福島市史編纂委員会発行の『福島市史資料叢書』第86集に収載されている。
 今回紹介する資料は、同書に収載されていないものである(明治・大正期の福島県庁文書2712号)。明治7年(1874)7月に県山林掛が作成して仙台鎮台に提出した報告の控で、明治10年11月に県地籍掛に引き継がれた。

 これには、旧城内にあった約1600本の立木の区域別・樹種別本数が記載され、絵図面も付属している。樹種を特定せず、雑木までも網羅しているので、立木が繁茂していた土塁の位置が実地に基づいて記録されている。絵図面は略図に過ぎないが、明治8年「福島旧城之図」(福島県立図書館蔵)と対比することにより、当時残存していた遺構をさらに具体的に検証できる。門の形状が表現されている点も重要であり、「板倉家御歴代略記付図」(板倉神社蔵)の表現との比較が可能となる。
 立木を倒し、土塁を崩し、堀を埋めて整地された現在の風景に、福島城の面影を探すのはむずかしい。福島市中心部が城下町であったという意識も、福島市民には希薄である。
 東日本大震災により、県庁西庁舎西側には、堀跡と見られる大陥没地帯が出現した。福島城の遺構は、土中に残っているのである。この一帯の震災復旧事業にあたっては、事前調査に基づく十分な配慮と説明が必要になると思われる。

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「福島舊城内立木明細調」付属繪圖面

(本間 宏)



『佳人之奇遇』と山本八重

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(『佳人之奇遇』初編巻2、鈴木重郎治家文書218号)

当館に寄託されている鈴木重郎治家文書のなかには、東海散士(柴四朗)『佳人之奇遇』6冊(217~222号)が含まれている。鈴木は、現在の南相馬市小高区の地域名望家で、大正8年(1919)から昭和2年(1927)まで福島県議会議長を2期務めた政治家である。
 『佳人之奇遇』は会津出身の東海散士などによって著された8編16巻にも及ぶ長編政治小説で、博文館から出版された。内容は、帝国主義により犠牲となった弱小民族の独立の悲願を描いている。明治期ナショナリズムを代表する文学作品で、当時の青年たちに広く読まれ、その思想形成に大きな影響を与えた。初編は明治18年(1885)に刊行され、最後の8編は明治30年に出版され、ようやくその完結をみた。序文は、谷干城・後藤象二郎・広沢安任など四朗と深く親交のあった人物が記している。自序では戊辰戦争に遭遇して一家が離散したと自らの実体験を交えて述べている。実際、慶応4年(1868)に四朗自身も鶴ヶ城の籠城戦に参加している。
 「会津城中烈婦和歌ヲ残スノ図」は、慶応4年9月22日に山本(新島)八重(1845―1932)が若松城の三ノ丸南側の雑物蔵の白壁に「明日よりはいつくの人かなかむらんなれし大城にのこる月影」という和歌を笄で記している場面である。この石版画は東京神田区の小柴英によって刷られたものであるが、原画は工部美術学校あるいは明治美術会系の画家が関わっていたといわれている。八重も四朗と同じく鶴ヶ城の籠城戦に加わっており、小説では、その後この女性が剃髪して戊辰戦争で亡くなった人の冥福を弔ったと創作されている。
 柴四朗は陸軍大将柴五郎の兄で、南会津郡長柴太一郎の弟でもある。四朗は八重やその夫である新島襄(1843―1890)とも交流があり、後に進歩党から衆議院議員に当選し、農商務次官・外務参政官などを歴任した。

(渡邉 智裕)



『師範学校中学校建築目論見帳』について

36-3-2.jpg『師範学校中学校建築目論見帳』

旧福島県尋常中学校本館は、郡山市開成5丁目25番63号の福島県立安積高等学校の敷地内にあり、現在は安積歴史博物館となっている。この木造2階建ての明治洋風建築は昭和52年(1977)6月27日に国指定重要文化財(建造物)となったが、2年前の東日本大震災によって大きな被害を受け、現在復旧工事が丁寧に進められている。
 筆者は、去る6月7日に幸運にも国指定重要文化財である旧福島県尋常中学校本館保存修理現場見学会に参加する機会を得た。これは「福島県指定文化財保存活用事業」の一環で、県内各市町村教育委員会等を対象としたものであり、建築史に暗い筆者にとっては匠の技を間近に見ることのできる貴重な時間であった。
 ところで、当館に収蔵されている明治・大正期の福島県庁文書のなかには近代建築・近代化遺産・近代化産業遺産などに関する簿冊が多く残されており、旧福島県尋常中学校の創建に関わる永久保存扱いの行政文書も存在している。それは明治21年(1888)から22年にかけて福島県第一部議事課で作成された『師範学校中学校建築目録見帳』(864号)で、「明治二十一年度中学校建築目論見」「明治二十一年度師範学校建築目論見」「明治二十二年度予算師範学校中学校建築目論見帳」の3冊が編綴されている。
 この簿冊には、300分の1の「福島県尋常中学校建築模様替図面」、300分の1の「福島県尋常中学校建築図面」、6000分の1の「福島県尋常師範学校建築図面」が付されており、設計当初の間取りがよく理解でき、大変貴重な資料である。
 また、簿冊では理化学教場・博物学教場・書籍室など各教室の坪数も一覧表になっている。柱については、予算・材質・長さ・幅・本数が記され、主な樹種は松・杉・栗である。側石・階段石・双盤石などは羽山石を用いる予定であったが、強度不足のため多田野村産の白石石に変更され、内部漆喰壁は荒壁に白漆喰塗りの仕様である。このほか洋釘・硝子附き戸・窓・瓦などの大きさや員数・経費、人夫や大工の賃金も記され、2年間の総工費は21,193円81銭1厘である。

(渡邉 智裕)



『物産景況書』にみる塩づくり 

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明治・大正期の福島県庁文書のなかに『物産景況書』(2526号)という表題の簿冊がある。
 この公文書は、明治12年(1879)に福島県農商課が作成したものである。当時の福島県下にある主な産業や企業の概況を記したものであり、記載項目は、「西白河郡西郷産馬法」「漆器商会」「本郷陶器」など23種に及び、中には会社の社則なども記載されている。
 写真は、『磐城国宇多郡岩ノ子村地内製塩設置平面図百分ノ一』と題された製塩所の施設配置を記した図であり、「製塩所建築」の項目に付随している。
 本書では、製塩所を造る経緯として、以下のような内容が記されている。「斎田・赤穂の塩を輸入して使用しているが、貧しい人々は使うことができないため、色も味も悪い相馬の塩を使っている。そこで改良をするために生徒を選び、上総国周淮郡大堀村(現富津市)の製塩所にて小野友五郎の指導する製塩法を学ぶため学生と係官を送った。全員卒業して福島県に戻り、岩子村の萱場という島に製塩所建設することを決めたのでこれからは輸入に頼らなくても良くなる事を期待し、製塩所の小図並びに機械の見積もり・生徒の人名をかかげる。」と記している。
 製塩に関する文書は多くあるが、実際の様相は発掘調査等により解明される例が多く、このような製塩所の見取り図が付随する事は希である。
 絵図には、在来塩焚小屋・土船・海水溜・塩置所・枠屋・事務所が描かれ、在来塩焚小屋と記されていることから、元々製塩場(塩田内)の釜場であったことが窺える。ただし、絵図の状況から入り浜式塩田としての機能は持たないようであり、施設を造るのにあたり塩田から大規模改修がされたものであろう。
 また、図中の×字状に描かれた部位には、「枠屋」の記載があり、海水を滴下させて太陽熱と風力により蒸発を促進させる枝条架を採用していることが分かる。
 近世に導入された入り浜式塩田法が枝条架のみで採鹹するシステムを経て流下式塩田法に転換して行く様子が窺える。

(佐々木 慎一)



平成25年度 行事予定(平成25年8月~平成26年2月)

1.展示公開
「発掘された日本列島2013」展関連
『ふくしま再生と文化財』
 東日本大震災の被災地に育まれてきた歴史と文化を見つめ直し、「ふくしま再生」を考える機会にしたいと思います。縄文時代の津波関係資料、製塩遺跡関係の古記録、古くからの伝統工芸品などを展示します。
【会  期】平成25年8月3日(土)~9月13日(金)
【解説会】平成25年8月11日(日)・9月8日(日)
       両日とも午前11時と午後1時から30分程度。
塩田が描かれている地籍図 旧新沼浦(駒ヶ嶺村)
『江戸時代の村絵図~県北編~』
【会  期】平成25年9月28日(土)~12月23日(月)
『新公開資料』展
【会  期】平成26年1月11日(土)~3月30日(日)
 なお、7月16日(火)~8月2日(金)は、展示準備のため展示室を閉室いたします。閲覧室等は開室しておりますのでご利用ください


2.フィルム上映会
 日本の伝統文化・歴史に関する作品を上映。会場は福島県文化センター視聴覚室。時間はいずれも午後1時から。参加費は無料。
【日程・上映作品】
第2回上映会 平成25年 9月 8日(日) 「風流のまつり 長崎くんち」
第3回上映会 平成25年11月17日(日) ①「鹿島さまの村―秋田県湯沢市岩崎民俗誌―」
                   ②「からむしと麻―福島県大沼郡昭和村大芦・大岐―」 
3.地域史研究講習会
 内容未定。決まり次第当館ホームページにてお知らせします。
【開催日・会場等】平成26年2月23日(日)午前10時~、福島県文化センター小ホール、要資料代。

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塩田が描かれている地籍図 旧新沼浦(駒ヶ嶺村)