福島県史料情報

福島県史料情報 第29号

「松川合戦」論の問題(3)-地籍図に残る梁川城の防備-

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明治15年地籍図(伊達郡梁川村大字梁川字櫻岳)

 徳川家康から「上杉攻めは来春」と通達されていた伊達政宗は、慶長6年(1601)を迎え、いよいよ信達侵攻の準備に余念がありませんでした。
 しかし、徳川・上杉の和睦の風聞を耳にした政宗は、無駄な戦闘は避けたいという気持ちと、「上杉攻めは来春」とする家康の指示を履行しない場合の処遇への不安の間で悩み始めます。
 政宗は、家康の意図が見えないまま、慶長6年3月27日頃に福島攻撃を断行しましたが、福島・簗川の上杉勢の反撃を受け、戦果無く退却しています。今に「松川合戦」の名で伝えられる逸話は、この時の戦いと、前年10月の戦いの顛末が混濁したものではないでしょうか。
 右上の図は、明治15年に作成された伊達郡梁川村大字梁川字櫻岳の地籍図です(上が南)。現在の「史跡梁川城跡」北三ノ丸跡付近の旧状が克明に描かれています。同時に作成された丈量帳では、切岸の部分が「崖」とも表記されています。ここに見られる内枡形の虎口や、深い堀と高い土塁などは、慶長5年に上杉景勝が派遣した援軍や、小手郷などの村々から集められた農兵らによって営々と造られたものではないでしょうか。
 慶長5年以来、簗川城は、伊達軍に対する上杉方の最前線として、緊張状態が解かれることがありませんでした。長期に渡る籠城は、城内の衛生環境を悪化させ、疫病の危険にも晒されていたと思われます。簗川城に休息命令が出されたのは、慶長6年6月5日のことでした(6月5日付け築地資豊宛て直江兼続書状写「歴代古案」巻6―45)。

(本間 宏)

茂庭の生活誌(2)

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「相定申證文之事」2~7行目
(旧茂庭村文書264)

 「茂庭の生活誌」第2回目の本稿では、林業を取り上げます。木材は、昭和20年代まで日常生活をする上で欠かせない資源でした。豊かな森林に恵まれた茂庭は、江戸時代以来、林業が盛んで木材の伐採・運搬が重要な仕事になっていました。「流し木」は山中から伐採した木材を、用材の場合は7尺(約210㎝)、13尺(約390㎝)等の長さに切り、丸太のまま川を流して運ぶものです。茂庭には「流し木」を生業にする者がいました。「流し木」の木材は冬から春にかけて伐採して、夏の間は乾燥させておきます。そして丸太を組んで作った「しら」の上を滑らせる方法等を使って、摺上川の近くまで下ろされました。摺上川には、水の溜まりやすい川幅の狭い場所を選んで「どっき」または「どう」と呼ばれる木組を作り水を堰き止めておきます。この堰き止められた水の中に木材を浮かべておき、雪解け水で増水する春先や秋の出水期に木組の一部を抜いて、水と一緒に木材を流し出していました。この木組は摺上川の数箇所に仕掛けなければ、木材を川下の湯野村や上飯阪村まで流すことはできなかったようです。
 福島県歴史資料館に収蔵されている写真の「相定申證文之事」(旧茂庭村文書264)は延宝6年(1678)の資料です。本文2行目から「唯今迄は木之寸法我儘に伐申に付而 沢出し不自由に候 自今已後木伐口壱尺弐寸上にして其下勝手次第に伐上可申候 但切口壱尺三寸ならばわり可申候 若又わり不申候而 ふとくきり申候はば 留前にてゑり上げ」とあり、当時、木材の運搬効率を上げるとともに、大きな木材が川の水を堰き止めている木組を破損するのを防ぐために流す木材の寸法を決めていたことが分かります。本文6行目の「留(どう)」は木組のことを指しています。これは茂庭・湯野・上飯阪の3村で結ばれた約束ですが、違反した場合は川下で「流し木」を分取ったと記されています。また、木材には「流木役」という税金が掛けられていたため、摺上川上流の茂庭村と下流の湯野村・上飯阪村の間で不正な盗み取りを取り締まるための取り決めが交わされていました。この約束事を記した「相定申證文之事」(旧茂庭村文書262)という延宝元年(1673)の古文書も残されています。

(小暮伸之)

水没した村の絵図

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「大谷村洪水絵図」部分(二瓶八郎家文書320)

 江戸時代には領主や代官が領内の村々を支配するために、様々な絵図が作られました。村絵図の多くは、名主・組頭・百姓代という村役人が連名で作成します。作成された目的や理由は様々ですが、「災害による損地の状況把握」「荒地の年貢減免申告」等と注意書きされている場合もあります。村絵図に描かれた屋敷・寺社・田畑・山野・河川・用水・溜池等はビジュアルで豊富な歴史的情報を含んでいます。
 江戸時代の村は現在の「大字」にほぼ相当します。村絵図の多くは集落と耕地、寺院や神社、道、周辺の山や川等が色分けして描かれています。必要なものを強調したり、不要なものを省いた絵図もあります。山・川等の地名は、通称で書き込まれている場合も多くあります。また、方位は書かれていますが、距離等は不正確なものが多いです。中には作成する時に紙を真ん中に置いて、車座に座った村人が、それぞれに四方八方から筆を入れて書き込むこともあったようで、この場合は方位、距離ともに不正確な絵図になります。
 本稿では一例として、災害に見舞われた村の絵図を紹介します。南会津地方の伊南川(檜枝岐川)沿いの村には洪水等の際に描かれた村絵図が残っています。大谷村は、現在の三島町大谷に存在した村で、山間に集落、村の西に大谷川、村の南と北に水田があったと記録されています。家数は30軒で、十二神社・山神社・春日神社・円福寺・薬師堂等の寺社があり、周辺の村々から集めた年貢米を貯蔵する米蔵もありました。右上の写真は、「大谷村洪水絵図」(二瓶八郎家文書320)です。絵図の中央には、大きな水たまりが描かれています。よく見ると、水面に木立の先や家の屋根が見えていて、春日神社も水に浸かっています。人を乗せた小船も水上を行き来しています。
 大谷川沿いの村では、江戸時代に川の氾濫によって、洪水の被害をしばしば受けました。中でも、文政3年(1820)6月の洪水は、地すべりで川がせき止められ、村全体が水没するという大災害となりました。この絵図はその時の様子を描いたものと思われます。

(小暮伸之)

檜枝岐村絵図について(5)

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慶応2年(1866)7月「小瀬平三平坂より上州方絵図」

 今回は慶応2年(1866)7月に描かれた『小瀬平三平坂より上州方絵図』について紹介する。
 この絵図は、只見川の支流であるところの檜枝岐川と会津沼田街道を絵図の中心として明確に位置付け、両者を南北軸にして描かれていることが特徴的である。方角としては、絵図の上が西、下が東となっている。
 絵図は慶応2年に作られたが、明治3午年12月に民部省の指示により国境に墨筋を引き、その控えを提出した旨の記述が加筆されており、当時としてはかなり有用な絵図であったことがうかがえる。
 地図には檜枝岐川とその支流舟岐川・見通川、只見川、そして、それぞれの川に注ぎ込む沢筋が描かれ、それぞれの沢筋には沢の名称が記されている。
 道は会津沼田街道を軸として栃木県の日光市方面に通じる道(現在の川俣檜枝岐林道)、南会津町に通じる道(現在の飯豊檜枝岐大規模林道)が描かれている。
 会津沼田街道では檜枝岐の入り口に口留番所が記されており、沼山峠や三平峠では九十九折りの道の様子が具体的に記されている。ただ、この絵図には宿場や集落が記されていない。理由については不明である。
 尾瀬周辺については、尾瀬沼の西側に尾瀬平(尾瀬ケ原)の範囲が破線で明記されていることが特筆される。尾瀬平の範囲は燧岳の麓から志佛山(至仏山)の麓に至る広い範囲となっている。
 尾瀬平には尾瀬沼から流れ出た河川(只見川最上流)と猫川、その支流の馬道沢の流れが記されている。只見川は尾瀬平から離れた所に三条瀧が記されている。
 尾瀬平の範囲が破線で明記されていることは、幕末期には尾瀬ヶ原湿原の範囲が既に具体的に認識されていたものと考えられ、人間と尾瀬ヶ原湿原との関わりの歴史を知る上でも大変に重要な資料ということができよう。

(山内幹夫)

『諸国温泉功能鑑』とふくしまの温泉

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『諸国温泉功能鑑』(『吾妻みやげ』所収、個人蔵)

 江戸時代後期には相撲番付にならって、様々な事物を格付けした見立番付が多く出版された。『諸国温泉功能鑑』もそのひとつで、順位・効能・温泉名などが記されている。
 右の図は嘉永4年(1851)に板行された薫々房著『吾妻みやげ』に収録されているが、内容は文化14年(1817)改訂のものをほぼ踏襲していると言えよう。右側には東日本の温泉が、左側には西日本の温泉がそれぞれ45箇所ずつ、中央には行司4箇所、勧進元1箇所、差添人1箇所が挙げられている。
 福島県内では、前頭三枚目である陸奥嶽の湯を始めとして、会津天仁寺湯・岩城湯元湯・奥州飯坂湯・会津熱塩湯・伊達湯ノ村湯・会津瀧の湯など7つもの温泉が選ばれており、「温泉王国ふくしま」の面目躍如たるものがあろう。その効能も多岐にわたっており、嶽の湯が瘡毒・諸病、天仁寺湯・湯元湯・湯ノ村湯が諸病、飯坂湯が湿瘡・皮癬・眼病、熱塩湯が中風・癪、瀧の湯が癪・痞によく効くという。

(渡邉智裕)

第1回国勢調査

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国勢調査の広告

 現在当館では企画展「新公開史料展2010」が開催されています。その展示資料の中に大正時代に発行された「官報」があります。今回は、官報に掲載されている「国勢調査」に関する記事をご紹介します。
 昨年、第19回国勢調査が行われましたが、第1回の調査は大正9年(1920)10月1日に実施されました。調査以前、官報には全面広告がたびたび掲載され、国が調査の周知に尽力した様子が伺えます。大正9年9月1日発行の官報第2425号に掲載された広告にはギリシャ・ローマ風の女神が描かれています。女神は「知」の象徴であるフクロウの冠を戴いて、右手には土星を持ち、その傍らには蝶の羽がはえた天使が寄り添っています。その他の号にも、複葉機からビラをまいている絵柄の広告や、艦隊を描いたものなど、多彩かつ世相を反映した広告が、毎号のように掲載されました。国勢調査は「善政の基礎」と謳われ、10月1日午前0時に開始されることが繰り返し告げられています。
 当時の調査項目は、「氏名」・「世帯に於ける地位」・「男女の別」・「出生の年月日」・「配偶の関係」・「職業及び職業上の地位」・「出生地」・「民籍別又は国籍別」の8項目と記されています。各世帯主は、調査開始当日の午前8時までに、調査申告書を調査員に提出しなければならなかったようです。
 また、国勢調査を記念した絵葉書も発行されています。絵葉書は3枚1組で、価格は「拾銭」でした。図柄は、「神武天皇東征の図」、「調査申告書の様式」、そして調査開始を告げる「時の響の図」からなっています。
 翌年、第1回国勢調査の結果がまとめられ、大正10年8月27日発行の官報には「道府縣郡島嶼市區町村別人口」が掲載されました。記事には、当時の行政区の名称と、その人口が詳細に記されています。それによると、大正9年の日本の総人口は5,596万3053人、福島県の人口は136万2750人とあります。また、各自治体の人口の下には( )書きの数字が記載されていますが、この数字は艦上や獄中にあって、調査票を提出できなかった人の数だと注記されています。

(今野 徹)

歴史資料館の1年

 当館は今年度、開館40周年をむかえました。その記念事業として『開館40周年記念 福島県歴史資料館の名品』展を9月11日(土)から12月26日(日)まで開催し、3,519名の方にご観覧いただきました。また、「ふくしま発信!歴史講演会」と題した記念講演会を9月25日(土)、10月16日(土)の計2回開催し、両方合わせて260名の方にご参加いただきました。なお、2月26日(土)には、第3回目の講演会を開催する予定です。
 その他の事業としては、まず企画展を3回実施しました。『近代教科書のあゆみ』展は4月10日(土)から6月13日(日)まで開催し、1,606名の方にご観覧いただきました。また、県内文化施設4館(文化財センター白河館・福島県立博物館・アクアマリンふくしま・フォレストパークあだたら)と連携した『ふくしま森林文化企画展 森と人の歴史をたずねる』を6月26日(土)から8月29日(日)まで開催し、2,158名の方にご観覧いただきました。『新公開史料展2010』は、1月8日(土)に開幕し、4月17日(日)まで開催します。古文書講座は『古文書から近世のくらしを読む』と題して、5月30日(日)、8月14日(土)、12月5日(日)の計3回開催しました。3回で229名の方に受講いただきました。日本の伝統文化に関する記録映画を上映するフィルム上映会は、5月30日(日)、8月28日(土)、12月5日(日)の計3回開催しました。3回合わせて209名の方にご参加いただきました。地域史研究講習会は地域の歴史を研究する方法、歴史資料を保存・活用することの大切さを県民の皆様により深く知っていただくことを目的にした事業です。2月11日(金)に開催し、116名の方に受講いただきました。
 なお、今年度は災害時における歴史資料の救済を目的にした「ふくしま歴史資料保存ネットワーク」が発足しました。その発足を記念した講演会等を11月27日(土)に開催し、49名の方にご参加いただきました。

(枝松雄一郎)