福島県史料情報 第31号
躍動する北斎の肉筆画
「和漢絵本魁」(斎藤文郎家文書3-48号)
紹介する史料は、「和漢絵本魁」という書籍です。これは、江戸時代に発行された同じ書名の板本の改訂・縮小版で、明治20年(1887)に再発行されたものです。
「和漢絵本魁」は天保7年(1836)に江戸で発行された板本で、江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎(1760~1849)が最晩年に描いた肉筆画を集成したものです。北斎は江戸の本所に生まれ、その後、画風の変遷と共にしばしば号を変えました。洋画を含む様々な画法を学び、優れた描写力と大胆な構成を特色とする独特の様式を確立しました。浮世絵版画では風景画や花鳥画に傑作が多く、代表作の「富嶽三十六景」はあまりにも有名です。
ところで、晩年の北斎は優れた浮世絵版画で大きな名声を得ていたにもかかわらず、75歳を過ぎると、浮世絵版画にあまり意欲を見せず、肉筆画を多く描くようになりました。それも当時の風俗を描くのではなく、和漢の故事・古典や宗教的題材に基づく作品を多く描いています。上の写真は、元弘3年(正慶2年・1333年)に上野国(現在の群馬県域)で挙兵した新田義貞が、鎌倉を攻める際、海中に黄金の太刀を投げ入れて竜神に祈念すると、一気に潮が引いて鎌倉に攻め入ることができたという故事を題材にしています。画面の右下には、「新田左中将、源の義貞、竜神に祈りて 稲村が崎を干潟となす」と記され、描かれた情景が解説されています。打ち寄せる大波が龍神に変化し、投げ入れられた太刀を受け取るのと同時に義貞の足元が陸地化しています。伝説のクライマックスシーンの一瞬の出来事をあますところなく、躍動的に表現しています。
江戸時代のベストセラーは明治時代になっても版を重ね、人々に愛読されていたようです。
(小暮伸之)
歴史的公文書としての官報
図1「官報第3892号」
図2「官報第3898号」
官報とは国の機関誌である。国事の広報と公告を使命とする。明治16年7月2日に参議・山縣有朋の建議により初めて発行された。明治29年6月に発生した明治三陸大津波の官報記載を例に官報が歴史的公文書であることを再確認したい。
明治三陸大津波に関する官報記事は、官報第3889号(明治29年6月17日)から官報第3898号(同年6月27日 図2)までの8号にわたって連載されている。官報の海嘯被害に関する記事は、号を重ねる度に詳細になる。大津波の原因は志津川沖を震源とする地震と記されている。6月15日の大津波襲来の前後の様子は、岩手県の記事で具体的に記述されている。それによると、旧暦の端午の節句の宴で人々が飲酒していた時に数回の地震が発生したが、揺れが小規模なため、津波を警戒せず、その後に起きた洋上の鳴動も軍艦の演習と勘違いし、事前に避難した人がいなかったことが多数の犠牲者を出した原因としている。津波の規模は、気仙郡で高さ5丈(15m)~数丈(17m~18m)であったと記されている。気仙郡は、現在の陸前高田市にあたり、今回の東日本大震災でも市の中枢部が津波で壊滅したが、明治三陸大津波でも同様の被害であったことがうかがえる。田老村では、10余丈(約30m)の津波が押し寄せ、2,600人以上の村民が死亡し、村役場職員と小学校の教員が全て殉職している。
被害状況の記述は、集治監出張所や警察署・警察分署・駐在所巡査の被災状況、役場や小学校の被災状況など公的施設や官吏の被災状況が詳述されている他、宮城・岩手・青森3県各町村の人的被害や建物被害の様子が具体的な数字で示されている。当時、被災現場からの状況報告は、各県庁から内務省宛の電報で受けており、その報告をもとに具体的な被災状況や被災統計表を連日官報に掲載する迅速さには、驚くべきものがある。
官吏の被災では、津波により数多くの町村の駐在所勤務巡査が殉職し、その家族も犠牲になったことが特に詳しく記載されている。宮城集治監雄勝浜出張所では看守や囚人が犠牲になった様子や、いかに囚人を避難させたかという記述が詳しい。岩手県越喜村の尋常小学校の被災については訓導が家族の犠牲を顧みず御真影を津波から救ったことが述べられ、時代性がうかがえる。
救助活動では陸軍工兵・警察官や役人・医師・看護人を被災地に派遣し、救助活動を実施したことが記されている。文中にある「有志者ノ寄付ニ係ル人夫」は現在のボランティアにあたる。医師など医療従事者の中にも多くの犠牲者が出て、急遽医師や看護人を雇用したことや第2師団(仙台)から軍医、赤十字社からも医師や看護人を派遣したことが記載されている。福島赤十字社から医師・看護人が派遣されたことが特筆されているのは興味深い。
被災状況の数値的な記述では、犠牲者が最も多かった岩手県が詳しい。気仙郡・南閉伊郡・東閉伊郡・北閉伊郡・南九戸郡・北九戸郡の各町村の詳細な被災状況一覧表を掲げている。項目は人口・死亡・負傷・健在者・戸数・流失家屋・半壊家屋・存在家屋の順で、岩手県内では、かなり詳細な被災状況の調査が進捗したことをうかがわせる。一覧表を見ると釜石町は死者4,700人と最大の被害を受けた自治体であったことが分かる。
明治29年6月の官報に記載された大津波の被害について、犠牲者数を集計すると次のようになる。宮城県2,584人(官報第3893号 6月22日段階)、岩手県23,309人(官報第3898号 6月27日段階)、青森県346人(官報第3895号 6月24日段階)、合計26,239人。
以上、官報から明治三陸大津波の記事を読んでみたが、津波襲来後の経緯や被害状況の数値などを具体的に知ることができ、さらに当時の記事から知りうる被災状況と、今回の東日本大震災の被災状況とを比較することも可能で、官報が歴史資料として有為であることを確認できた。もちろん明治三陸大津波については官報以外にも多くの記録があり、それを詳細に調べなければ全貌は理解できないことは言うまでもない。
(山内幹夫)
堀切善次郎と関東大震災復興
大正13年(1924)3月9日付堀切善次郎等連署覚書
(明治・大正期の福島県庁文書1521号)
大正12年(1923)9月1日に発生した大地震は、東京府・神奈川県などをはじめとした関東地方南部に甚大な被害をもたらした。とりわけ、東京・横浜では多数の火災が発生し、未曾有の大災害となった。この震災による死者・行方不明者は14万人を優に超え、生業を求めて関東地方に住んでいた福島県出身者も多数被災したのである。そのひとりであった小高出身の俳人大曲駒村(本名は省三、1882―1943)の『東京灰燼記』は、関東大震災の記録文学としてよく知られた作品である。
ところで、当館には福島県が関東大震災の復興にどのように関わったのかを明らかにできる公文書が2冊保管されている。表題は『東京地方震災救済会関係綴』(明治・大正期の福島県庁文書1520・1521号)、1冊は義捐金品募集のため福島県庁内に設立された「東京地方震災救済会」についての簿冊である。もう1冊は、福島県内出身の震災避難者に対する救済金給付に関する簿冊で、被給付者の名前と給付金額が各町村ごとにまとめられている。
飯坂出身の堀切善次郎(1884―1979)は、公的には当時内務省参事官であったが、後藤新平内務大臣の下で臨時震災救護事務局委員になり、その後内務省都市計画局長、土木局長、復興局長官を歴任し、行政の側から震災復興を主導した。
さらに、善次郎は同郷出身者の困難な状況に心を痛め、翌年3月9日には私的に二本松出身の衆議院議員近藤達児らと共に10人が参会し、「福島県出身者ニ対スル小資貸附事業」の世話人となったのである。そこでは、福島県から在京福島県人罹災者救護の目的で送金された3万5千円を東京市役所の吉田茂・馬渡俊雄両助役に委嘱し、東京市職業紹介所を通して在京福島県罹災者に対して低利もしくは無利子で貸し付けすることが合意されたのである。
降って昭和5年(1930)3月、善次郎は東京市長として帝都復興完成式典を執り行った。
(渡邉智裕)
震災からの史料救出活動
前号で報告したように、福島県歴史資料館は、福島県立博物館・福島大学・福島県史学会とともに結成したボランティア連携組織「ふくしま歴史資料保存ネットワーク」の一員として、消失の危機に直面している歴史資料の救出・保全活動に携わっている。3月11日の大地震発生後、右図に示すような地点において、考古資料・美術品・写真類・古文書・行政文書などが救出されている。
今後もなお、半壊と認定された住宅や土蔵の解体が進むものと予測されるため、貴重な地域の記憶と記録が失われぬよう、情報の提供をお願いしたいと考えている。
現在の最大の課題は、東京電力福島第一原子力発電所の事故によって原則立ち入り禁止となっている区域や、その周辺における高放射線量地域に取り残された歴史資料の取り扱いである。この区域内には、国・県の指定文化財を含む多くの歴史遺産が存在するが、これらをどう保護すべきか、いまだ見通しは立っていない。個人所有資料については、所有者自身が被災し、しかも避難を余儀なくされていることから、資料の現状がどうなっているのかを確認することも困難な状態となっている。
原発事故による被災者への補償が検討されているが、地域の歴史と民俗がまるごと破壊されてしまったことへの補償などは全く顧慮されてもいない。地域に根ざした歴史遺産は、その地域において守り伝えていくことによって、地域住民の心の拠り所となるものである。地域破壊が一気に進んでしまった現在、そこにある歴史遺産を守る作業は、「福島の再生」という一筋の希望をつないでいく作業と一体的に行われるべきものであろう。
原発災害は、今なお継続中である。美しい歴史的風土と生活基盤を破壊された福島県民は、今こそ強く連携し、その声を国内外に発信していくべきではなかろうか。
(本間 宏)
地域史研究会活動情報 国見町郷土史研究会
当会は、昭和46年7月30日に誕生し、今年は創立40周年記念の年にあたる。現在の会員数は、215名。創立当初からの在籍会員は6名のみになり、その内の一人、郷土史研究家の菊池利雄氏の指導のもとに会の活動を行っている。年会費は2,500円(会報代含)。
年間の主な事業は、研修旅行(春1回・秋1回)、町文化祭への参加、歴史講演会(年1回)、会報「郷土の研究」発行(年1回)。また、町文化財ボランティアの登録者17名中16名が当会の会員である。
今年は、創立40周年記念事業の企画に入る矢先に東日本大震災に見舞われ、当町の震度は6強で、被害は甚大であった。町役場庁舎も業務不可能となり、急遽、役場機能を観月台文化センターに移転した。そのため、私達文化団体は、活動の拠点を失うことになった。更に、福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染の問題も重なり、会の活動は、しばらく停滞せざるを得なかった。しかし、小坂地区の集会所を会場にして、予定より2週間遅れて第39回総会を開催した。この総会では先行きが全く不透明な状況もあり、明確な決議や承認はできなかった。その後、会員同士話し合いを重ね、7月30日に念願の創立40周年の記念祝賀会を開催した。この祝賀会を皮切りに活動を再開し、10月1日、町教育委員会の後援のもと観月台文化センター内の大研修室で、講師・菊池利雄氏による歴史講演会「日本の古代合戦史よりみた阿津賀志山の戦い」を一般参加者も交えて開催した。今後は例年通りの運営をしていく予定である。
今回の東日本大震災で、当町の(国)登録有形文化財「奥山家」の3棟の土蔵も被災し、その内の1棟は全壊、残る2棟も半壊で解体せざるを得ない状態になった。そのため、町教育委員会は、土蔵の解体前に、蔵内の奥山家文書類及び骨董品類を搬出し、観月台文化センターに保管した。その後、町教育委員会から、当会文化財ボランティアグループに対し、奥山家文書群のクリーニングと分類作業の協力要請があり、7月に7日間、9月に9日間、作業に協力した。この協力作業に従事して、奥山家の全国的に、しかも多岐にわたった事業経営の実態に触れることができた。
(庶務担当 内池育男)