調査研究コラム

#077 双葉町正八幡神社のプロペラについて 佐藤 俊

 東日本大震災から9年が経ち、令和2年3月4日には双葉町の一部地域で避難指示が解除された。双葉町では放射性廃棄物の中間貯蔵施設建設に先立ち、郡山地区の銅谷迫(どうやさく)遺跡と後迫(うしろさく)B遺跡で発掘調査が行われている。筆者は後迫B遺跡の調査を担当し、現場周辺を眺めるにつれ、復興が進捗し日々景観が変わっていく様を実感している。   

先日、郡山地区の標葉郡衙推定地である郡山五番遺跡を見学した際、併せて郡山正八幡神社へ参じた。境内は掃き清められており、氏子の方々の神社に対する思いがうかがわれ、大変感じ入った。

写真1郡山正八幡神社(筆者撮影).JPG

その際、拝殿の両梁にプロペラが掛けられるように安置されていたのを発見し、驚きとともに、「なぜ神社にプロペラが?」と素朴な疑問が浮かんだ。

写真2拝殿に安置されたプロペラ(筆者撮影).JPG

本コラムではこの双葉町の郡山正八幡神社のプロペラについて記していきたい。

このプロペラをよく観察してみると木製の合板で造られており、文字が刻まれていることが分かった。羽根(ブレード)部分には「正八幡神社」、「武内政夫」という文字が、シャフトとプロペラを繋ぐ中央部(ハブ)には「乙式一型偵察機用 サ式 230HP 佐 511 昭和4年12月2日」という文字と「3本の音叉」の記号が読み取れた。

図1.jpg

まずプロペラに記された「武内政夫」について考えてみたい。縄文時代から現代までの双葉町に起こった出来事をまとめた『双葉町年表』を紐解くと、昭和8年(19331017日の項目に「1017武内政夫郷土飛行、西山澄子のパラシュート降下実技を行う(日記)」とある。文中の「(日記)」とは個人の日記に記載があったという意味で、どうやら「武内政夫」なる人物は1933年に双葉町上空を飛行したということがうかがえる。

次に「乙式一型偵察機」について考えてみたい。これは日本陸軍が採用したフランスの「サルムソン2」という飛行機の別名であることが分かった。

写真3サルムソン2(筆者所蔵).jpg

飯山幸伸によれば、サルムソン2は1917年に設計開始、1918年初頭から実戦配備され、偵察機ながら戦闘機並みの飛行性能だったようで、アメリカ軍第一飛行隊のWP・アーウィン大尉は1度の出撃で8機の敵機を撃墜したという。第一次世界大戦直後の1919年からは日本でも乙式一型偵察機として陸軍が採用し、600機が製作されたという。また、1933年以降、旧式化した乙式一型偵察機は多数が民間に払い下げられたという。余談だが、岐阜県各務ヶ原市の「岐阜かかみがはら航空宇宙博物館」では乙式一型偵察機の実機が復元展示されている。

http://www.city.kakamigahara.lg.jp/webmagagine/6874/24752/024750.html

「3本の音叉」の記号は、日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)のマークであることが分かった。ヤマハ株式会社と言えば、身近なところではバイクやピアノなどで有名だが、戦前は戦闘機の木製プロペラの製作も行っていたようで、陸軍の一式戦闘機通称隼や一〇〇式司令部偵察機通称新司偵が例に挙げられる。

以上のことから双葉町の郡山正八幡神社のプロペラは、飛行士の「武内政夫」が陸軍から払い下げられた「乙式一型偵察機」で郷土を飛行し、後年奉納したものと推測したい。使われなくなった戦闘機のプロペラを神社に奉納する例をみると、群馬県伊勢崎市の伊勢崎神社が有名で、プロペラを模った渡航安全・航空安全のお守りが販売されている。

双葉町は一部の避難指示が解除されたとはいえ、未だに多くの地域では立ち入りが制限されているのが実情である。被災地域での発掘調査を通して、かけがえのない地域の歴史を伝えることの大切さを痛感している。今後も微力ながら双葉町の文化財について紹介していきたいと思う。

下のURLから双葉町正八幡神社のプロペラの3Dモデルにリンクします。

https://skfb.ly/6QFoM

参考文献

双葉町史編さん委員会 1997『双葉町年表』双葉町

飯山幸伸 2004『偵察機入門 世界の主要機とその運用法』光人社NF文庫