#78堂田(どうでん)A遺跡から出土した「鬼」墨書・刻書土器について 吉野 滋夫
1 はじめに
奈良・平安時代の集落跡からは数は多くないものの、土器の器面に墨や尖った工具などで文字等を記した墨書・刻書土器が出土する。
ここでは、堂田A遺跡(註1)から出土した、あまり類例のない「鬼」墨書・刻書土器を紹介する。
2 堂田A遺跡について
堂田A遺跡は、田村郡小野町大字菖蒲谷に所在し、右支夏井川支流の黒森川沿いの丘陵地に立地する。本遺跡は、黒森川のダム建設に伴い発掘調査が実施された。
堂田A遺跡からは、平安期の竪穴住居跡を4軒確認したが、重複することなく一定の間隔をおいて位置する。その立地は1・3・4号住居跡が南向き緩斜面に、2号住居跡は南東向き急斜面となっている。各住居跡から出土した遺物をみると、時期差がみられないことから、同時期に営まれていた可能性が高い。
なお、平安期の遺構から1m下層には縄文時代早期中葉から末葉にかけての集落跡が確認されている。
堂田A遺跡遺構配置図(平安時代)
3 「鬼」墨書・刻書土器
「鬼」墨書・刻書土器は平安期の1~4号住居跡すべてから出土し、いずれも土師器杯である。
1号住居跡のものは堆積土から出土 し、体部外面の下半に墨書された「鬼」は天地逆となっている。2号住居跡のものは堆積土から出土し、「鬼」は底部内面に刻書されている。3号住居跡のものは検出面から出土し、底部外面に墨書されている。判読不明としたが、改めて字体をみると「鬼」の可能性が高い。4号住居跡のものは貼床土から出土し、「鬼」は底部外面に墨書されている。なお、「鬼」以外の墨書・刻書土器として1号住居跡では「王」や判読不明の墨書や、「集」の刻書、4号住居跡からは「集」の墨書と刻書が記されているものや記名不明の墨書などが出土している。
4 まとめ
堂田A遺跡は丘陵部に位置する小規模な集落跡であるが、各住居跡から墨書・刻書土器が出土していることが特徴である。このことは、集落の規模とは関係なく土器に墨書・刻書といった行為を行っていたことを示している。
なお、福島県内での「鬼」墨書土器の出土例としては、喜多方市鏡ノ町B遺跡河川跡から出土した須恵器杯の底部外面に「鬼」と解読不明の文字が記されているものがある(註2)。鏡ノ町B遺跡は、郡衙に関連する有力豪族の居宅跡と推測されている遺跡で、集落跡の堂田A遺跡とは遺跡の性格が異なる。だが、郡衙関連遺跡で出土しているこの1点の事例を評価し、一般的な集落跡とは異なるものと断じていいのか、現時点では留保しておきたい
また、集落遺跡での墨書土器の出土傾向をまとめている平川南氏によると、墨書土器の文字は、その種類がきわめて限定され、かつ東日本で共通しているという。さらに、その文字は、「吉・得・富・福・万」などの吉祥語およびその組み合わせが目立っている(註3)。この指摘からみると、吉祥語ではない「鬼」を記すことは相反する行為といえよう。つまり、忌諱する「鬼」を記すことで、土器が形代(かたしろ)になり祓い清められるなどの行為を推定することもできよう。
古代文献においても鬼についての記載が散見されているが(註4)、今回はこれらについては触れることができなかった。今後はこれら関連資料を含めて検討してゆきたい。
なお、まほろんの常設展示に、堂田A遺跡出土土器2が展示されている。
(註1)2005年 福島県教育委員会『こまちダム遺跡発掘調査報告3 堂田A遺跡』
(註2)2001年 塩川町教育委員会『県営低コスト化水田農業大区画ほ場整備事業 塩川西部地区遺跡発掘調査報告5 鏡ノ町B遺跡』
(註3)1991年 平川 南「墨書土器とその字形―古代村落における文字の実相―」『国立歴史民俗博物館研究報告 第35集』
(註4)2003年 荒井秀規「鬼の墨書土器」『帝京大学山梨考古学研究所報第47号』