#087 霊山頂上に所在する山王社の石製賽銭箱について 佐藤俊
1 はじめに
史跡及び名勝の「霊山」は、福島県伊達市霊山石田と相馬市玉野周辺に所在する。阿武隈高地の北部に位置し、標高825ⅿの低山ながら玄武岩の露頭した急崖の連なりは東北随一の秀峰として名高く、最高所の東物見岩からは、太平洋・仙台平野・牡鹿半島が、北側の紫明峰からは、信達盆地・安達太良連峰・吾妻連峰を遠望することができる。山上にはアカマツ、ツツジなどが自生しており、紅葉の時節には特に多くの登山客で賑わっている。
霊山の歴史は、寛文五年(1665)に成立した『奥州伊達郡東根南岳山霊山寺山王院縁起』(以下霊山寺縁起)によれば、貞観元年(859)に慈覚大師円仁により南岳山山王院霊山寺が開かれたことに始まる。中世では南北朝期における動乱の舞台として知られ、延元二年(1337)には北畠顕家が義良親王を奉じ霊山城に拠り多賀城から陸奥国府を移したとされている。
霊山山頂に位置する霊山城跡や東物見岩が位置する箇所から稜線沿いの登山道をさらに北上すると、山王平と呼ばれる大きな平坦地に到着する。そこには日枝神社奥宮や大宮山王社、一ノ宮山王二十一社などの名称で呼ばれている神社が鎮座しており(以下山王社)、石製の賽銭箱が安置してある(図1)。この賽銭箱について伊達市教育委員会の方や、地元の登山客の方にその由来を尋ねても不明とのことであった。今回のコラムでは、この石製の賽銭箱に着目してその由来などを探っていきたい。
(図1)
2 山王社と石製賽銭箱に関する文献
寛保三年(1743)に村の概要を記した『寛保三年亥七月大石村鑑指上帳』によれば、「霊山峯ニ正一位日吉大権現大宮 天台宗南岳山山王院別堂 霊山寺 是者四月中申日ニ祭申候、社地之儀者、山之内ニ而、御検地と申ニ茂無御座候、往古より有来候迄ニ御座候」とあり、江戸時代の寛保三年頃にはすでに現在の位置に存在していたようである。
明治9年頃に中川英右が編纂した『大石村誌』を紐解くと、山王社について「境外摂社日枝神社 霊山に在り社地面績二百十九坪(官有地)祭神大山咋貞観元年勧請すと云、其古社たる知るへし、由緒詳ならす」とされ(霊山町1979)、慈覚大師による霊山寺開山と同年の勧請という伝承があるが、由緒は不詳であると記されている。またこの賽銭箱に関する記載があり、「賽銭櫃は長方形の巨石に孔を穿ち一方を小にし一方を大にし其孔の小き処を上面にして銭を投入すへからしめ石を顛覆するに非れは決して銭を出す能はさらしむ、其用心の奇と古代樸素の風を観るに足る」(霊山町1979)とある。明治時代にはその存在が知られており、ひっくり返さなければ銭を取り出すことができない賽銭箱に対し、驚きの対象となっていたことが伺える。
3 山王社の石製賽銭箱
石製の賽銭箱の実測図について図2に示した。石製の賽銭箱は、山頂に多く露頭している玄武岩を用いて成形している。玄武岩は加工に不向きであることから、地元でも石材として用いられている例はない。形態は直方体を基調とし、長さ143cm、幅56cm、高さ44cmを測る。上部の中央付近は長方形に盛り上がり、そこに直径8cmの孔が認められる。孔の中を覗くと硬貨が多数認められ、現在でも使用されているようである。底部は一部が破損しており、小石や扁平な木材により補修されている。
線刻は正面にのみ認められる(図3)。「奉納」、「賽銭入」、「太願主」、「瀬成田村」、「石母田️□吉」、「寺島興八」といった文字が読み取れる。瀬成田村は江戸時代から明治9年にかけて存在した伊達郡東根郷の村で、『霊山寺縁起』にも霊山寺寺領として記載が認められる。また、年号部分について剥落が著しく判読に苦慮するが「安️□□亥️年」、「八月十️□日」と記されていると推測される。頭文字が「安」で、「亥年」の年号は「安永八己亥年(1779)」のみである。
(図2)
(図3)
4 まとめ
霊山山頂の山王社にある石製の賽銭箱は、安永八己亥年(1779)に、瀬成田村の石母田️□吉や寺島興八が願主となり、奉納されたと推測したい。賽銭箱は長さ143cmと大型で、山頂で多く路頭している玄武岩を用いていることから、山頂で石材を採取し加工したものと推測される。また、山王社の敷地入り口には、玄武岩質の手水鉢が安置されていることから、賽銭箱とセットで奉納された可能性がある。今後も歴史と自然豊かな霊山の文化財について調べていきたい。
<引用・参考文献> 霊山町 1979『霊山町史』第2巻原始・古代・中世・近世資料編1
※以下のURLから3Dモデルがご覧いただけます
https://sketchfab.com/3d-models/e76370fcbe194f8ea080dcf32ebc1ff6