#071 下郷町湯野上遺跡出土の端部彫刻石棒 後藤 信祐
はじめに
今年度、(公財)とちぎ未来づくり財団から出向してきました後藤といいます。会津縦貫南道路建設に伴う南会津郡下郷町に所在する縄文時代の栗林遺跡・下居平乙遺跡の発掘調査を担当しています。
年度当初,発掘調査に先立ち会津地方のこれまでの縄文時代の発掘調査報告書や市町村史などを調べてみました。 そこで、平成14年3月に刊行されたに下郷町湯野上遺跡の発掘調査報告書(注1)に福島県ではちょっと珍しい石棒がありましたので、その重要性について述べてみたいと思います。
湯野上遺跡の発掘調査
湯野上遺跡は、会津鉄道湯野上温泉駅の500mほどの南にあります。阿賀川とその支流、大沢川との合流点の南側段丘面に立地しています。今から四半世紀ほど前の福島県立博物館の企画展『縄文絵巻』(注2)では、福島県の主な縄文時代中期中頃の主な遺跡が53プロットされています。下郷町では湯野上遺跡のほか、今回当財団で発掘調査を行っている栗林遺跡、御霊平A遺跡の3遺跡が載っています。いずれの遺跡も発掘調査は行われていませんでしたが、耕作等でたくさんの土器や石器が出土していることから周知されていたのでじょう。
さて、湯野上遺跡の発掘調査は国道121号の改良工事に伴うもので、調査区は幅5m、長さ75mと細長く、遺跡の一部にトレンチ(試掘坑)を入れたようなものです。発掘調査は平成13年8月と10月に延べ14日間実施され、縄文時代中期の竪穴住居跡4軒と土坑1基、河道跡などが発見されています。4軒の竪穴住居跡は重複しており、いずれも全体は不明です。1・2号住居跡は石組炉のみで、3・4号住居跡は長方形と長楕円形の形状で、中軸線をほぼ同じくしており、入れ子状で有段住居のようにも見えます。中央には細長い地床炉が確認されています。出土土器などから、4号(大木8a)→3号(大木8a)→2号(大木8b)→1号(大木9古)と変遷したと考えられます(図1・2)。
図1
1~4号住居跡配置図
図2
4号住居跡出土遺物
出土した石棒の特徴
石棒は一番古い4号住居跡から出土しています。報告書では出土状態や出土位置などの詳細は分かりませんが、大形石棒の破損品であること、柱状の素材を敲打によって円柱状に整形していること、頭頂部に同心円状の高まりを作り出していることが記載され、実測図と端部の拓本、計測値(長さ22.7㎝、断面は16.2×14.3㎝、重さ8.8㎏)、が掲載されています。
石棒の写真が掲載されていなかったため、下郷町教育委員会木村沙織さんに実見をお願いし、観察・実測・写真撮影をさせていただきました。安山岩製で、側面は研磨整形されていますが、断面は丸い稜が5箇所見られ略円形で柱状節理の形状を残しています。端部はほぼ円形で敲打整形により幅2㎝ほどの同心円状の陽刻がみられ、完形の同型の石棒のから判断するとほぼ半欠品と考えられます(図3、写真1)。
写真1
湯野上遺跡4号住居跡
出土石棒
図3
湯野上遺跡出土石棒実測図
端部彫刻石棒の研究の現状
縄文時代の大形石棒は古くから注目されていましたが、研究は関東~中部地方を中心に行われてきました。本石棒のような無頭で端部に彫刻を施すような石棒は、多くが北海道南西部~東北地方北部から出土していたため、ほとんど取り上げられることはありませんでした。
2007年、渋谷昌彦氏が福島県内の主に遺構に伴う45点の大形石棒を集成し、氏の同年刊行の論文の型式分類に対応させ、出土状況や時期になどついて述べています(注3)。その中で、平坦な端部に同心円文・十字文などを施す特徴的な石棒を青森県から山形県に分布することから東北型無頭石棒と呼称し、中期中葉から後期前半に存在し、中期後半に多いことを指摘しています。そして、福島市月崎A遺跡97号住居跡、同市(旧飯野町)和台遺跡15号住居跡の頭頂部に凹面のある無頭石棒を含め、このような石棒が福島県内にも存在するとしています(注4)。
2012年には、阿部昭典氏が端部に同心円や十字状の彫刻をほどこす無頭石棒を「端部彫刻石棒」(泉山タイプ)と呼称していますが、渋谷氏の端部凹面のみの無頭石棒は含めていません。多孔質安山岩、流紋岩を多用し、中期後葉(大木8b~榎林式土器)に、東北北部を中心に北海道西南部から山形県まで広範囲に分布することを明らかにしました(図4)。南限は、日本海側が山形県であるのに対し、太平洋側は岩手県北上川中流域和賀川付近までのようで、時期は前後しますが、円筒上層式や十腰内1式土器などの分布と似ていることなどを指摘しています。また、北陸飛騨地方を中心に広がる彫刻石棒や鍔をもつ石棒が、東北地方日本海側にも点在することから(図5)、端部彫刻石棒の成立にこのような石棒の影響が介在した可能性を示唆しています(注5)。
2013年には、茅野嘉雄氏が三内丸山遺跡の北盛土出土の石器を整理するなかで、北日本の縄文前中期の石刀・石棒について検討を行っています。端部彫刻石棒については、三内丸山遺跡では中期中葉のエンタシス状のものから中期後葉に細長い柱状タイプが出現すること、青森県笹ノ沢(3)遺跡・秋田県大畑台遺跡の中期前葉を最古例とし、中期中葉に広範囲に拡散し、その後徐々に姿を消していったことなどを指摘している。また、北日本では前期中葉から存在する自然礫を利用した石柱も系譜として考えられることや、有頭鍔付石棒の出現時期が後出であることから、阿部氏の端部彫刻石棒の成立に鍔をもつ石棒や彫刻石棒が影響したとする説に疑義を提示しています(注6)。
本石棒の重要性
前節の先学の研究を踏まえて、湯野上遺跡出土の端部彫刻石棒の意義について述べてみたいと思います。
まず、湯野上遺跡の端部彫刻石棒は、詳細な出土状況は不明ですが中期中葉大木8a式期の竪穴住居跡から出土しており、帰属時期が分かることです。阿部氏が指摘している東北北部の端部彫刻石棒よりは1段階古い時期のものと考えられますが、本例と同じ端部に同心円状の高まりを作り出した石棒は、青森県泉山遺跡や山形県西ノ前遺跡などでやはり中期中葉の土器と出土しており、茅野氏が指摘しているように、中期中葉に広範に分布した1例としたほうが妥当と考えられます。
もうひとつは、同心円状の端部彫刻石棒の分布としては、これまで南限の山形市熊ノ前遺跡出土例よりは100Kmほど南から出土していることです。福島県で出土例が確認された端部凹面の無頭石棒を含めても最南端に位置します。
東北北部を中心に北海道西南部から山形県まで分布する無頭の端部に陽刻で同心円状の高まりを表出する石棒、北陸・飛騨地方を中心に東北地方日本海側まで分布する側面に陽刻で鍔をめぐらす石棒、これらは中期中葉頃に東日本の日本海側に対峙して分布する個性的な石棒です。湯野上遺跡は、これらの石棒の分布の外縁に位置していますが、栃木・福島県境に位置する荒海山に源を発し、会津地方を北流し、新潟県の北部を横断して日本海に注ぐ阿賀川流域の段丘上に立地していることから、阿賀川を遡って内陸の南会津にもたらされた貴重な石棒といえるでしょう。
最後に、本石棒の実見及び、写真・再実測図の掲載を快諾して頂いた下郷町教育委員会木村沙織さんに感謝いたします。
参考文献
(注1)山岸英夫・鈴木 伯2002『湯野上遺跡発掘調査報告』(『下郷町文化財調査報告』第12集)下郷町教育委員会
(注2)森 幸彦1991『企画展 縄文絵巻-土器に宿る精霊たちの饗宴-』福島県立博物館
(注3)発掘調査出土例が少ない会津地方では磐梯町角間遺跡の両頭石棒のみで、南会津地方出土の石棒はありませんでした。渋谷昌彦2007a「福島県内の大形石棒」『いわき地方史研究』第44号いわき地方史研究会、2007b「石棒の形式分類と石剣・石刀の問題」」『列島の考古学』』Ⅱ渡辺誠先生古稀記念論集
(注4)なお、石棒で頭頂部に凹面や窪みを有する有頭石棒は福島市月崎A遺跡・いわき市大畑貝塚で、幅広の低い鍔を作り出した石棒はいわき市愛谷遺跡で出土しています。
(注5)阿部昭典2012『東北北部の大形石棒にみる地域間交流」『考古学リーダー20 縄文の石神~大形石棒にみる祭祀行為~』(株)六一書房
(注6)茅野嘉雄2013「三内丸山遺跡の石刀類・石棒について」『特別史跡三内丸山遺跡年報―16-』青森県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡保存活用推進室