#070 岩手県沿岸北部における縄文時代の磨製石斧製作 杉沢 昭太郎
はじめに
平成28年度、岩手県九戸郡洋野町にある北鹿(きたか)糠(ぬか)遺跡の発掘調査に携わっていたときのこと、掘り始めて直ぐに海岸部(この地域は砂浜ではなく大小の円礫で構成される海岸が多い)、若しくは河川で採取し、この遺跡へ持ち込まれた円礫が極端に多く見られることに気付き、可能な限り重機を使わずに手掘りで作業を進めることにしました。すると今度は、磨製石斧(とくに未完成品)や打ち欠いたときの剥片、磨製石斧製作に使用していた敲石も多数出土するようになりました。この遺跡は縄文人が磨製石斧を製作していた場所だったのです。
以下、本遺跡及び出土した石器類の内容についての概要を記してから、石斧製作の工程を整理し、近隣遺跡の状況と比較をしてみたいと思います。そしてその中で見えてきた石斧製作及び石材採取における地域的特徴について紹介していきます。
図1
25.000分の1
「角浜」「種市」を加工
北鹿糠遺跡について(第1図)
磨製石斧製作の話しへ入る前に、北鹿糠遺跡について簡単に触れておきたいと思います。遺跡は岩手県沿岸部の最北端に位置する九戸郡洋野町にあります。洋野町役場から南西方向へ約1.5kmの比較的緩やかな丘陵地帯に立地し、標高は75~70mあります。海岸線までは最短距離で0.9km程です。遺跡の範囲は北東−南西約320m、南東−北西約130mで南側を立頭川、北側をリュウザイ川という川幅1m程の小河川に挟まれ、北東方向(海岸部)へと丘陵が舌状に張出す地形をしています。
検出された遺構は、何れも縄文時代のもので竪穴住居が1棟(後期)、陥し穴16基、土坑11基、焼土3基です。遺物は縄文時代の土器(後期主体)が大コンテナ(42×32×30㎝)4箱、石器が大コンテナ6箱出土しました。この他に、海岸部又は河原で採取され遺跡内に持ち込まれた大小の円礫が十数箱にのぼります。竪穴住居は直径約3mと小さくて簡素なものであり、3基の焼土は何れも小規模な屋外炉でした。本遺跡は、遺構数が少なく遺構間の重複も殆ど無いこと、竪穴住居が簡素でお墓や貯蔵穴も見つからなかったことなどから、磨製石斧製作のためにこの地を訪れた人々が短期間暮らした場所ではないかと考えています。
磨製石斧をつくる
磨製石斧の未完成品としたものの中には製作途中で破損したもの、目指す形状に成形(整形)できずに諦めたもの等があります。石質は砂岩や花崗閃緑岩・ヒン岩などが多く、この地域で産する石材です。
その他に荒割して出た剥片や成形(整形)に使用した敲石などもあり、磨製石斧製作の方法について、詳しく知ることができる資料が得られました。その製作工程については先学に示されていたものとほぼ同じと言えます。先ずは原石を荒割し、それを剥離成形する。更に敲打して整形を進めていき、最後に研磨して全体を整えるのです。今回注目される点として紹介したいのは、磨製石斧の片面については、円礫本来の自然面をそのまま活用しているものが多くみられることです。これが本遺跡を含むこの地域から出土する磨製石斧製作の特徴の一つと考えています。荒割をする前段階から、片面だけは石斧の基部から刃部までを剥離成形(整形)しなくてもよい「都合の良い形をした石」を選ぶことにより、剥離・敲打成形から研磨仕上げまでの作業軽減を図っていると推察されます。
製作の最終段階にあたる研磨については、それに使用していたであろう砥石若しくは磨石類が殆ど出土していないこと、研磨段階の石斧も少量しか出土しなかったことから、本来の集落に持ち帰ってから行っていたと考えています。
片面を自然面のままとする、或いは必要最小限の剥離整形しか行わない技法は縄文時代の石器の中に少なからず見られると思います。例えば石匙や掻器も原石から上手く剥離することが出来れば、あとは片面のみ剥離整形して刃部をつくりだしているし、打製石斧類の中にも片面調整を主とするものが見受けられます。恐らくはこうした石器類の製作技法の影響が顕著に表れているのがこの地域の特色なのかもしれません。
加えて円礫を容易にかつ豊富に採取できる場所であったため、素材を厳選することが可能となったと推測されます 特に河口部を中心に発達した円礫主体の海岸は、礫の大小ごとに層を成して堆積しており、求める大きさの円礫を容易に得ることができるのです。
図2
北鹿糠遺跡の磨製石斧未完成品
石斧つくりのムラ(第3~5図)
これまでにも磨製石斧を製作していた、またはその可能性が高い遺跡は、北鹿糠遺跡の周辺にいくつか知られていました。例えば本遺跡のすぐ東側にあるゴッソー遺跡からも縄文時代後期の竪穴住居内外から磨製石斧の未完成品や敲石が出土しています。遺跡から出土する石斧未完成品及びその加工に用いた敲石に非常に良く似ている資料でした。他にも洋野町内では平内Ⅱ遺跡、西平内遺跡、上水沢Ⅱ遺跡などでも未完成石斧(敲打成形途中のもの)や、製作に使用した敲石が出土しています。隣の久慈市では平沢Ⅰ遺跡(後期)、二子Ⅰ・Ⅱ遺跡(後・晩期)でも磨製石斧、敲打成形途中の石斧、剥離成形段階の石斧、敲打整形に用いる敲石が出土しています。野田村の根井貝塚でも後・晩期と見られる石斧未完成品が見つかっており、掲載した平沢Ⅰ遺跡出土の磨製石斧未完成品の中には片面を自然面のまま活用しようとしているものが含まれています。普代村の力持遺跡や田野畑村の館石野Ⅰ遺跡でも同様の資料があります。
隣接する青森県階上町では道仏鹿糠・藤沢(2)遺跡から多くの石斧並びに石斧製作途中段階の資料、製作に使用した敲石等が出土し、石斧製作を生業とする集落であることが明らかになっており、その中には片面をあまり加工せず、自然面のままにしている資料が見受けられます(第4図)。
このように三陸海岸北端部に位置する遺跡から出土する磨製石斧の未完成品の中には、前述したように片面を自然面のまま利用しようとしているもの、若しくは片面は少ない加工のみで整形までできるような資料が複数含まれていることが分かるでしょう。
八戸市内の遺跡からも石斧製作関連遺跡は複数報告されています。また、岩手県内陸部では盛岡市の川目A遺跡や二戸市の雨滝遺跡が石斧製作遺跡として知られているが、製作技法は共通するものの基本的には礫の両面を剥離成形するものが主体となっています。
図3
三陸海岸北部の石斧製作事例1
図4
三陸海岸北部の石斧製作事例
おわりに
分布図(第5図)が示すように、三陸海岸北端部は石斧製作が盛んな地域であったことが窺え、その資料を見ると製作技法についても共通する部分が多いという印象を持ちました。
その中でも北鹿糠遺跡及びその周辺遺跡では、製作の手間を省くため、片面を極力自然面のまま活用する磨製石斧つくりが行われていたことをこの地域の特徴と考え紹介しました。このような磨製石斧が遺跡から出土した当初は、「縄文人も楽をして石斧をつくりたいのか…」などと考えたりもしましたが、剥離・敲打の回数が少なくて済むのならば、それだけ失敗(欠損)する可能性が低くなるのであるから、製作上合理的な考え方に基づいての行動とも言えるのではないでしょうか。それに加工していく作業は軽減されたかもしれませんが、原石の選別はより厳密さを求められたと推測されます。遺跡内から多量の円礫が出土していた状況は、石斧加工に適した原石を、遺跡内に持ち込んでから厳選していたことを物語っているのかもしれません。
またこれらの円礫の中には、石斧や敲石に使用するにはあまりにも小さい直径5㎝未満の個体も多く混じっていました。このことも採取地(筆者は草木が川岸まで繁茂する近隣の河原よりも海岸部のほうが原石を採りやすいと考えている)で石の選別は行われていなかったことを示しているのではないでしょうか。
完成した磨製石斧については、自分達で使用する以外に、他の地域へ(主に内陸部か)もたらされたと推測されますが、その具体的な様相については明らかに出来ず今後の課題として残っています。この点に関しては岩手県内陸部にも石斧生産遺跡が存在するものの、石質の違いから流通圏の推定は可能と思われるので、引き続き精査を進めたいと思っています。また出現時期についても本稿では触れることはできませんでしたが、少なくとも縄文時代前期初頭頃には存在しているという印象を持っています(注1)
図5
石斧製作関連遺跡の分布
図5-2
石斧製作関連の分布
主な引用・参考文献
富山県教育委員会 1990 『北陸自動車道遺跡調査報告-朝日町編5-境A遺跡石器編』
長田友也 2012 『広域流通する縄文石器 磨製石斧-政策技術の変遷と流通-』 季刊考古学119号
齋藤岳 2012 『本州北東端の磨製石斧製作―三陸の石材環境への適応と石斧製作の解明に向けて-』 紀要17号 青森県埋蔵文化財センター
須原拓 2013 『川目A遺跡出土の磨製石斧生産について』 紀要ⅩⅩⅩⅡ (公財)岩手県文化振興財団埋蔵文化財センター
(公財)岩手県文化振興財団埋蔵文化財センター 1988 『平沢Ⅰ遺跡発掘調査報告書』 岩手県文化振興財団埋蔵文化財調査報告書第125集
青森県埋蔵文化財センター 2011 『道仏鹿糠遺跡・藤沢(2)遺跡』 青森県埋蔵文化財調査報告書第499集
(公財)岩手県文化振興財団埋蔵文化財センター 2012 『川目A遺跡第5次発掘調査報告書』 岩手県文化振興財団埋蔵調査報告書第589集
岩手県洋野町教育委員会 2015 『平内Ⅱ遺跡発掘調査報告書』 洋野町埋蔵文化財調査報告書第2集
※その他の遺跡は、遺跡一覧表を参照ください。
注1 未報告 平成29年度調査の岩手県九戸郡洋野町に所在する鹿糠浜Ⅰ遺跡の調査では中掫火山灰層直下、縄文時代前期初頭の土器群と共に出土