#066 カマドの煙突から出土する土器について考える 丹治 篤嘉
前回のコラムでは、カマドの煙突がずれている事例に関するお話しをしました(註1)。その際、カマドのつくりが具体的にイメージできるようにイラストを提示しました(図1)。このイラストでは、煙突の先端部分を土手状の高まりとして表現しています。煙突は家の外にあるため、土手状のものがないと雨水や土砂が周囲から流れ込む恐れがあり、それを防ぐためにそのような工夫をしていたのだろうと考えました(註2)。
図1 カマドのイラスト
(作画:丹治 篤嘉)
実際、群馬県渋川市黒井峯遺跡のC-75号竪穴式住居(図2)では、煙突部分が高くなっています(註3)。 ただ、このような状況が発掘調査でわかることはなかなかありません。煙突の先端部分に土手状の高まりがあったとしても、長い年月のうちに崩れてしまったり、後世に掘削されて失われてしまうことが大半でしょう。
黒井峯遺跡は日本のポンペイとも称され、遺跡より南西約20㎞離れた榛名山の噴火がもたらした分厚い軽石層に覆われたことにより、古墳時代後期の集落が当時の状況そのままに保存されていた幸運な事例です。
福島県内で遺存状態のよい事例としては、会津坂下町中平遺跡が挙げられます。中平遺跡は、度重なる洪水により古墳時代後期の集落が厚い砂層で覆われたまま発見されました(註4)。しかし、この調査でも煙突の周囲に土手状の高まりがあったかまではわかりませんでした。
図2 黒井峯遺跡C-75号竪穴式住居の
カマド(断面図)
発掘調査で、煙突の周囲に土手状の高まりがあったかどうかを検証するのはなかなか難しい作業ですが、今回は、この煙突の土手ではなく、通常であれば煮炊きに使う土器を煙突に用いている事例について考えてみたいと思います。
発掘調査で煙突の部分から土器が出土することはしばしばありますが、それが煙突に使用されたものなのかどうかについては、調査研究コラム「#017遺物の出土状況について考える」でも述べたように、出土状況・堆積土等の検討が必要です(註5)。ここでは、煙突に土器が使用された良好な事例として、福島県小野町西田H遺跡1号住居跡(平安時代)を紹介します。
図3が、西田H遺跡1号住居跡のカマドです。少し長くなりますが、以下に、報告書の記載を引用します。
「煙道は天井が崩落しておらず、煙突として利用された転用甕を含め良好な状態で遺存していた。煙道を含めたカマド内の堆積土は11層に分けられ、ri11は煙突埋置するための掘形埋土、ℓ8~10は燃焼部天井構築土を含む崩落土、ℓ7は住居内堆積土と同起源、ℓ5・6は煙突からの自然流入土、ℓ4は煙突を埋置した際の埋土が崩落したもの、ℓ1~3は煙突埋置用の掘形からの自然流入と推定される。~中略~。煙出し穴には土師器甕を転用した煙突が口縁部を下にして埋置されており、底部を打ち欠いた状態で使用されている。煙出し穴の底面は煙突を置くための段が作出されており、煙道部底面とは約45cmのレベル差が認められる(註6)。」
図3 西田H遺跡1号住居跡のカマド
(平面図・断面図)
この報告の内容にしたがって土層の堆積要因毎に色分けしたものが図4~7です。まず、燃焼部の天井部(ℓ8~10)が崩落します(図4)。
この際、自然に崩落したのか、意図的に壊されたのかが問題となりますが。「燃焼部両脇の袖部は左袖の一部に構築粘土が遺存するのみであり、廃棄時に取り去られたものと考えられる。」と報告書に記載があることから、報告者はカマドが意図的に壊されたと判断していると考えられます。
図4 燃焼部の天井が崩落(ℓ8~10)
次に、ℓ5・6の堆積状況を見ると(図5)、煙突に使用された土師器甕の内部を通って煙道部に土が流入したものと考えるのが妥当であることがわかります。
図5 煙から土が流入(ℓ5・6)
ℓ4は、比較的均質な土であるℓ1~3やℓ5・6とは異なり、黄褐色粘質土と暗褐色土とが混ざった土と報告されています。この特徴は、煙突埋置するための掘形埋土とされるℓ11と共通しています。このことから、報告者は、ℓ4を、煙突を埋置した際の埋土が崩落(図6)したものと判断しています。そして、この埋土が崩落したことによってできた隙間から流入したのがℓ1~3(図7)というわけです。
図6 煙突の周囲の埋土が崩落(ℓ4)
図7 崩落した箇所から土が流入(ℓ1~3)
このように報告内容を再度検証してみると、土層の堆積状況に対する理解に矛盾するところがないことがわかります。このため、報告された通り、土師器甕が煙突に使用された状況のまま見つかった事例であると判断してよいと私は考えています。
西田H遺跡1号住居跡の事例は、カマドの煙突の構造等を検討する上で一つの指標となると考えられるため、わかったことを以下にまとめました。
①カマドの燃焼部は意図的に壊されているが、煙突は壊されずに残されていた。
②煙突部分には底部を打ち欠いた土師器甕を転用していた。
③土師器甕は口縁部を下に伏せた状態で設置されていた。
④煙突の底面には、土師器甕を置くための段がつくられていた。
⑤土師器甕の周囲には、土師器甕を煙突として固定するための埋土が入れられていた。
なお、住居跡が機能していた段階で、煙突の土器が周囲の地面よりも上に飛び出ていたと仮定した場合、土手状の高まりがなくても、周囲からの雨水や土砂の流入を一定程度防ぐ効果があったと推測されます。当時の人々がこのように考えたかどうかは定かではありませんが、一つの可能性として指摘しておきたいと思います。
一方、煙突から土器が出土したからといって、煙突として使用されたままの状態であるとはいえない事例もあります。図8に示した福島県いわき市タタラ山遺跡Ⅰ区4号住居跡(平安時代)では、西田H遺跡1号住居跡と同様、煙突から土師器甕が出土したのですが、その土器は、ほぼ完形で底部もある土器だったのです。底部があるということは、煙は抜けないので、煙突としての役割を果たすことはできません。煙突に使われたとは思えないものが、なぜ煙突にあるのか?。報告書には、「ピット内にはほぼ完形の土師器甕が正位で1個体出土した。カマド廃絶時に儀礼的な意味で、意図的に遺棄されたものと判断した。」と記載されています(註7)。煙突が機能していた段階には役に立たない土器が煙突から見つかるということは、やはり、何らかの意図で後から置かれたものと見るのが妥当でしょう。
タタラ山遺跡I区4号住居跡のカマド
(平面図)
このことから、煙道部から出土する土器には、煙突としての役割が付与されたものと、後から意図的に置かれたものがあることがわかります。単に土器が煙突から出土したからといって、設置された状況を留めていると即断することはできません。煙突から出土する土器の出土状況及び煙突・煙道・燃焼部の堆積土等を検討し、煙突に設置された状況を反映したものなのか、後から置かれたものなのかについて、判断する必要があります。この作業を経て、ようやく、煙突の構造について考えることが可能となってきます。私はかつて、カマドの燃焼部における遺物の出土状況について検討したことがありますが(註8)、今後、煙突から出土する土器についても同様の検討を行っていきたいと考えています。
(註1)丹治篤嘉 2017 「#054ずれているカマドの煙突」『公益財団法人福島県文化振興財団遺跡調査部ホームページ』(http://www.iseki.fcp.or.jp/A05/f54.html)
(註2)五十嵐祐介氏は、煙突の地表面上での保護措置について、「何らかの措置がなければ、踏み抜かれたり、降雨や土砂の流入なども考えられるし、冬季に降雪の多い地域もある。上屋と関連して、何らかの保護措置が取られていたことは必須である。」と指摘しています(五十嵐祐介2015「東北地方のカマド」『季刊考古学 第131号 特集古代「竪穴建物」研究の可能性』)。
(註3)子持村教育委員会 1991 『黒井峯遺跡発掘調査報告書』子持村文化財調査報告第11集
この事例は、厳密にいえば、煙突は竪穴住居跡の周囲に土盛りされた周堤の上に設けられているため、イラストの状況とは異なりますが、本コラムは、周堤に関する内容が主たる目的ではないため、詳しい言及は控えます。
(註4)会津坂下町教育委員会 2003 「中平遺跡」『会津坂下町内遺跡発掘調査報告書Ⅱ』会津坂下町文化財調査報告書第54集
(註5)丹治篤嘉 2014 「#017遺物の出土状況について考える」『公益財団法人福島県文化振興財団遺跡調査部ホームページ』(http://www.iseki.fcp.or.jp/A05/f17.html)」
(註6)福島県教育委員会 2005 「西田H遺跡」『こまちダム遺跡発掘調査報告3』福島県文化財調査報告書第424集
(註7)福島県教育委員会 1995 「タタラ山遺跡」『常磐自動車道遺跡調査報告4』福島県文化財調査報告書第316集
(註8)丹治篤嘉 2010 「カマド燃焼部における遺物出土状況の検討」『福島県文化財センター白河館研究紀要2009』(http://www.mahoron.fcp.or.jp/kiyou/pdf/2009_1.pdf)
【挿図出典】
図1…筆者作成
図2…註3文献より転載・一部改変して作成
図3~7…註6文献より転載・一部改変して作成
図8…註7文献より転載・一部改変して作成。