調査研究コラム

#064 東北地方における古代・中世の製鉄遺跡の様相  能登谷 宣康

1 はじめに
 近年、島根県古代文化センター・島根県埋蔵文化財調査センターが編集した『島根県における古代・中世製鉄遺跡の基礎的調査』(2016年)が刊行された。この中に掲載された全国の製鉄遺跡一覧の作成に若干協力した経緯もあり、その後、手元の資料を再整理してみたところ、発掘調査された古代(古墳時代から平安時代前半)の製鉄遺跡及び製鉄炉は、全国で347遺跡、1,087基あり、古代末・中世(平安時代後半から江戸時代初め)では160遺跡、304基である。
 古代の製鉄遺跡は、表1に示したように、旧国別で見ると、南は肥後、北は陸奥まで確認されており、陸奥が73遺跡、354基とダントツで、その内、福島県は50遺跡、250基である。その次に多いのは吉備(備前・備中・備後・美作)の54遺跡、187基で、さらに、筑前・越後・上野・出羽・下総・武蔵・近江・越中と続いている。
古代末・中世の製鉄遺跡は、表2に示したように、旧国別で見ると、陸奥と出雲が34遺跡で、次いで石見・安芸・出羽・越後・肥後と続いている。
 本稿では、この内、東北地方の製鉄遺跡について、現在の県ごとに年代順に紹介する。

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表1・国内における古代の製鉄遺跡数 表2・国内における古代末・中世の製鉄遺跡数

2 東北地方の古代・中世の製鉄遺跡
 発掘調査された東北地方の製鉄遺跡及び製鉄炉は、古墳時代から平安時代前半では、合計95遺跡428基(青森県:7遺跡63基、秋田県:23遺跡74基、岩手県:7遺跡28基、宮城県:9遺跡13基、福島県:50遺跡250基)で、平安時代後半から江戸時代初めでは、合計44遺跡106基(青森県:1遺跡2基、秋田県:8遺跡14基、岩手県:15遺跡59基、宮城県:1遺跡7基、福島県:18遺跡24基)である。
なお、山形県に関しては、かつて、新青渡遺跡と豊原遺跡が製鉄遺跡とされていたが、出土資料を実見したところ、両遺跡から出土した鉄滓は精錬鍛冶滓であることが判明したことから、カウントしていない。

3 福島県・宮城県の製鉄(図1~3)
 福島県及び宮城県の太平洋沿岸地域において、7世紀後半に福島県で製鉄が開始され、8世紀には宮城県でも製鉄が開始される。原料は、いずれも砂鉄である。
7世紀後半から10世紀初頭には、製鉄炉は箱形炉と竪形炉の両者が存在していたが、主体をなすのは箱形炉である。箱形炉は炉掘形の特徴、送風装置の位置などから以下のように変遷する。

 ①7世紀後半~8世紀前葉:炉掘形は両端が開口する溝状で、炉の主軸延長線上の両側に排滓される。丘陵頂部に設置されるもの(縦置炉:新地町向田E遺跡など)と斜面に設置されるもの(横置炉:南相馬市鳥打沢A遺跡など)がある。炉掘形が幅広で浅いものと幅狭で深いものがあり、後者は基礎構造が厚い。また、縦置炉・横置炉とも炉基底部に礫が敷かれているものがある。送風装置の位置は炉長辺の両脇に推測されるが、送風用の羽口が出土していない。当時の吉備あるいは近江から技術移転されたものと推測されている。

 ②8世紀中葉:丘陵斜面に炉掘形の主軸が等高線と直交するように設置される。炉掘形は一方が開口する浅い溝状で、廃滓場が斜面下方のみに形成される。炉掘形内の山側には前期の箱形炉掘形の名残と推測される大型ないしは小型のピットが付随するものもある。送風装置は炉長辺の両脇に設置されたものと推測され、送風用の小型羽口が登場する。この時期、炉背部に送風用の踏みふいごの掘形が付随する竪形炉が、当時の上野・武蔵などの関東地方から導入される。(展開期。南相馬市長瀞遺跡など。)

 ③8世紀後葉~9世紀前葉:立地・炉掘形の形態・廃滓場の位置などは8世紀中葉のものと同じであるが、炉背部に送風用の踏みふいごの掘形が付随する。つまり、前期までの製鉄炉と送風装置の位置が異なる。(技術革新期。南相馬市長瀞遺跡など。)

 ④9世紀中葉~10世紀初頭:前期の箱形炉と見た目は似ているが、炉掘形は一方が開口する長大な溝状ないしは長方形を呈しており、深い。掘形内には炭化物や焼土が充填されており、基礎構造が厚い。炉壁に設置される羽口の間隔が狭く、数も多い。竪形炉は9世紀中葉以降には存在しない。(南相馬市大船迫A遺跡など。)

 以上の内、8世紀中葉から9世紀前葉が最盛期であり、9世紀中葉以降は製鉄炉の数は減り、10世紀初頭で一連の箱形炉による製鉄は終焉を迎える。
 10世紀後半~11世紀には両側辺及び炉背部に羽口を1本ずつ設置した円筒形自立炉が登場する。炉の規模よりやや大きめの円形ないしは楕円形の炉掘形を持つ。掘形内には炭化物や焼土が充填され、基礎構造が厚い。羽口は前期までよりも外径が大きい。(南相馬市天化沢A遺跡。)
 古代末から中世にかけては、斜面の傾斜に対して直交する主軸の炉掘形(基礎構造)を持つ横置きの箱形炉が存在する。炉掘形は長さ約1.7m、幅約1m、深さ約50㎝の長方形箱形である(利府町大貝窯跡など)。なお、12~ 13世紀には深い炉掘形を持たないが、炉背部に送風用の踏みふいごの掘形が付随する横置炉が存在する(新地町南狼沢A遺跡)。
 14世紀には炉掘形(基礎構造)を持ち、炉背部に送風用の踏みふいごの掘形が付随する。炉掘形は長さ約2.2m、幅約2m、深さ約70㎝の方形箱形である(利府町大貝窯跡)。
 一方、福島県では14世紀以降、17世紀前半にかけて、内陸部の阿武隈高地を中心に製鉄遺跡が存在し、炉掘形(基礎構造)は3.2~4.2m四方、深さ1.2~1.7mの方形箱形で、踏みふいごの掘形は見られない。須賀川市関林H遺跡・下竹の内遺跡では、炉掘形底面の中央部東西方向と壁際に浅い溝が存在する。炉底痕跡は概ね楕円形で、規模は92×58㎝~260×130㎝とばらつきが見られるものの、炉底痕跡の縁辺から羽口が並んで出土した例(青井沢遺跡)や炉底滓及び炉壁の観察から、炉壁の側辺に外径11~13㎝の羽口が3本以上接するように装着された長方形箱形炉が想定される。なお、須賀川市関林H遺跡では炉掘形に隣接して精錬鍛冶炉や羽口焼成炉、台状遺構(ふいご座)が存在する。

4 秋田県・青森県の製鉄(図5)
 秋田県では、日本海沿岸地域において9世紀中頃に竪形炉による製鉄が開始される(秋田市坂ノ上E遺跡・湯水沢遺跡)。この竪形炉は炉背部に踏みふいごの掘形を持つもので、同時期の東北地方南部や関東地方・北陸地方に一般的に見られる竪形炉と同種である。
 その後、9世紀後半から10世紀にかけて、秋田県北部沿岸地域を中心として小型馬蹄形の竪形炉による小規模な製鉄が行われ(寒川Ⅱ遺跡など)、10世紀後半から11世紀には秋田県北部の沿岸から内陸(米代川流域:鹿角市堪忍沢遺跡など)の地域及び青森県津軽地方(鯵ヶ沢町杢沢遺跡など)で前期と同様の小型馬蹄形の竪形炉により製鉄が盛んに行われる。
 11世紀には秋田県南部沿岸地域で隅丸長方形の炉掘形(基礎構造)を持つ製鉄炉がある。炉掘形は長さ約1.5m、幅約1.2m、深さ約30㎝を測り、廃滓場からは約16tの鉄滓が出土していることから、大規模な製鉄が窺える(由利本荘市湯水沢遺跡)。
 12世紀後半には秋田県北部沿岸地域で、隅丸方形ないしは円形の炉掘形(基礎構造)を持つ製鉄炉がある。炉掘形は長さ約1.4m、幅約1.2m、深さ約50㎝を測り、基礎構造には炉壁・炉底滓・炉内滓等を敷き並べている。遺跡内からは約10tの鉄滓が出土していることから、大規模な製鉄が窺える。なお、炉掘形(基礎構造)の外側には深さ約50cmの「コ」の字状の溝が巡っているのが特徴的であり、新潟県の北沢製鉄遺跡の製鉄炉との関係が指摘されている(琴丘町堂の下遺跡)。
 13世紀中頃には青森県津軽地方でも製鉄が行なわれていた。新潟県北沢製鉄遺跡や秋田県堂の下遺跡と似た形状の製鉄炉である(鯵ヶ沢町土人長根遺跡)。
 なお、秋田県八竜町中渡遺跡において、福島県沿岸部の9世紀代の遺跡で一般的に見られる箱形炉の炉壁が出土していることから、秋田県北部沿岸地域でも9世紀ないしは10世紀頃に箱形炉による製鉄が行われていた可能性がある。

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5 まとめ
①東北地方における古代・中世における製鉄の原料は、一貫して砂鉄である。
②東北地方における製鉄は7世紀後半に福島県沿岸地域で開始され、その後、順次北に行くにつれてその開始時期は下り、10世紀には青森県津軽地方でも開始される。なお、福島県・宮城県における古代の製鉄は10世紀初頭には終焉を迎えるのに対して、岩手県・秋田県の古代の製鉄はこの頃が最盛期である。
③福島県・宮城県における古代の製鉄炉の一つである箱形炉では、炉の下部の基礎構造が次第に発達してくるが、11世紀以降になると、地域差なく、炉掘形(基礎構造)が次第に充実してくる傾向が窺える。炉掘形が大型化するだけではなく、底面に溝を持つものや基礎構造に炉壁等を敷き並べるものもある。近世のたたら製鉄の基礎構造へと続く流れと捉えられる。
④古代には、東北南部では箱形炉及び竪形炉による製鉄が行われるが、東北北部では竪形炉が主流を成す。しかし、この竪形炉は同じ形態のものではなく、地域性が窺える。中世には、竪形炉もあるが、大型羽口を装着した円筒形自立炉または箱形炉が主流を成していたのではないか。

※本稿は、平成28年9月12日に島根県古代文化センターで開催された、島根県古代文化センターテーマ研究「たたら製鉄の成立過程」第1回客員共同検討会での発表を一部改変した。
※岩手県の製鉄遺跡の挿図については、報告書未刊行のものに関して掲載許可を得ていないことから、本稿では割愛した。
※参考文献の掲載は割愛した。