調査研究コラム

#063 江平遺跡53号住居跡に残された多量の土器 神林 幸太朗

1 はじめに
 江平遺跡は福島県石川郡玉川村に所在する遺跡です。地域高規格道路「福島空港・あぶくま南道路」の建設に伴い、平成11~12年度にわたって当財団(当時は財団法人福島県文化振興事業団)が発掘調査を行いました。発掘調査された54,000㎡の区域は旧石器時代から中世にわたる複合遺跡である事が判明し、各時代において多大な成果があがっています。

2 53号住居跡について

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写真1 江平遺跡53号住居跡(報告書より転載)

今回取り上げる53号住居跡は、5世紀の後半に機能したとみられる、古墳時代の竪穴住居跡です。この住居跡は一辺4m弱、床面積は約14.5㎡の小形の住居跡です。平面形は方形で、南東壁にカマドが造られ、隣接して貯蔵穴が掘られています。南西壁際には、方形に巡る周堤部の中心にピットが存在し、入口施設の可能性が指摘されています。
 この住居跡で注目されるのは、約87点という多量の土器が、住居内に遺棄されたとみられる状態で出土したことです。なぜ小さい住居跡にこれだけ多くの土器が残されていたのでしょうか。

1.出土した土器について
 ここでは報告書の記載をもとに、出土した土器について概観してみたいと思います。
出土した土器はすべて土師器で、須恵器は出土していません。器種は甕・壺・甑・杯が認められます。

(1)出土した土器の内訳
 最も多く出土したのは杯で、62点出土しています。食事の際に使用する食器としての用途・機能が考えられています。主食・副食用の器として、仮に1人あたり2個使用したと考えると、約30人が使用できる数です。

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第1図 出土した杯(報告書掲載図を一部改変)

次に多く出土しているのは甕で14点出土しています。甕は大きさから、器高15㎝前後の小型のものと、器高20〜30㎝前後の大型のものに分かれます。
 いずれの個体にも外面にスス、内面にコゲが付着していることから火にかけて使用した調理器である事が伺えます。甕とセットで使用されたとみられる甑は7点出土しています。甕と同様に小型のものと大型のものに分かれます。この時期の調理器については、大型の甕と甑はカマドに掛けて米蒸し調理に使用し、小型の甕はカマドの焚口に置いて副食調理に使用した事が明らかにされています(註1)。
 東日本ではカマドに甕を2個掛けるのが一般的である事から、実際に使用する数より多くの甕・甑が残されている事がわかります。

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第2図 出土した甕・甑・壺(報告書掲載図を一部改変)

壺は4点とわずかです。いずれも器高15㎝前後の小型の壺です。壺は貯蔵器以外にも、運搬や醸造の機能も想定されています。53号住居から出土したものは比較的小型のものが多く

(2)出土した場所について
 出土した土器は、カマドが位置する南東壁周辺および、貯蔵穴・入口施設が位置する南西壁周辺に集中しており、それ以外の場所からは出土していません。報告書ではさらにA〜Dの4ブロックに細分されています。

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第3図 53号住居跡 平面図(報告書掲載図を一部改変)

Aブロックは住居東隅からカマド左袖までの範囲で、最も多くの土器が出土しています。
 内訳は杯53点・壺2点・甕12点・甑2点です。杯は正位で床面に置かれたものや、2〜3点を入れ子状に重ね置いたものが認められます。また堆積土中から出土したものに関しては、竪穴上端部に置かれていたものが埋没過程で、竪穴内に転落したと推定されています。竪穴上端部の空間については、小型の土器などを収納しておく「棚状空間」として利用されていた事が明らかになっています。甕・甑・壺は横に倒れ潰れています。これらも本来は正位で置かれたものが横転したものと考えられます。

 Bブロックはカマドとその周辺の範囲で、杯1点・甕1点・甑1点が出土しています。このうち杯はカマド袖の石材に粘土で貼り付けてある事から、カマド使用に伴う何らかの機能を果たしていたと想定されています。

 Cブロックは住居南隅に位置する貯蔵穴とその周辺の範囲で、杯1点・壺1点・甕1点・甑2点が出土しています。貯蔵穴内には周辺からの流入土が堆積しており、住居廃絶時にはフタなどは無く、開口していたと思われます。土器はいずれも貯蔵穴堆積土中から出土しており、本来貯蔵穴周りに置かれていたものが、埋没過程で貯蔵穴内に転落したものと想定されています。

 Dブロックは南西の入口施設から住居西隅までの範囲で、杯7点・甕1点・甑2点・壺1点が出土しています。すべて床面に置かれたとみられますが、Aブロックのようにまとまっておらず、散在したような状況で出土しています。

(3)出土土器の評価について
53号住居跡出土の土器群について、報告書では以下のようにまとめています。

・すべて住居廃絶時に置き去られたもの(遺棄されたもの)である
・カマド、貯蔵穴、竪穴内周堤(入口)の周囲に集中し、竪穴の北半は無遺物範囲である。
・カマド、貯蔵穴の周囲では甕・甑などの煮沸、煮炊具の割合が高い。杯はいずれのブロックにも存在するが、特に東隅に集中する。
・竪穴南東隅周辺の壁面上にも土器を立ち並べていた可能性が高い。
・遺物はすべて土師器であり、須恵器やその他祭祀関連の遺物は認められない。
・煮沸、煮炊具にはほぼ例外なくススが付着し、杯が加えて器面にはハジケが顕著である。つまりこれら土師器は日常容器として使用されていたものと考えられる。
・カマドは底面の酸化が著しく、長期間の使用が認められる。
(中略) 結論として53号住居における土器の多量出土は日常生活の痕跡を留めたものであり、該期における住居廃絶時の慣習に倣ったものと考えている。

 残された土器の種類や割合、使用痕跡の様相、残された場所などから、これらは祭祀に使用した土器などではなく、日常容器をまとめて捨てて行ったと評価しています。このようなカマドや貯蔵穴周辺に土器が残される事は、石野博信氏の研究でも指摘されており、53号住居跡の事例も当時の一般的な傾向と合致します。
つまり江平遺跡53号住居跡の特異な点は、約80点という多量の土器が残されていた事に集約されます。これだけ多くの土器が住居跡に伴うとみられる形で出土する事例は非常に珍しいです。ではいったいこの多量の土器はどのような性格のものなのでしょうか。

4.黒井峯遺跡
 こうした問題を考える上で参考となる遺跡が黒井峯遺跡です。この遺跡は群馬県渋川市(旧子持村)に所在し、吾妻川左岸の河岸段丘上に立地しています。昭和57年から平成元年にかけて発掘調査が行われた結果、6世紀中頃に噴火した榛名山の火山灰や軽石によって、古墳時代の集落が埋没している事が判明しました。そして火山噴出物によって短時間に村全体が埋没したため、埋没直前のムラがそのままの状態で残されていました。通常の遺跡では検出が困難な、屋根や壁といった建物の構造、道や畑、さらには樹木などの植物の痕跡などが確認されました。 「日本のポンペイ」として全国的に注目されて、平成3年には国の史跡に指定されています。

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第4図 53号住居跡 平面図(報告書掲載図を一部改変)

この遺跡の調査成果のひとつとしてあげられるのが、当時の「一世帯」が竪穴住居だけでなく、複数の建物群から成り立っていた事が判明したことです。第4図は発掘調査の成果をもとに当時の様子を復元したイラストです。竪穴住居1軒のほかに、平地式建物・掘立柱建物・家畜小屋・畑などが垣根や柵に囲まれ、ひとつの単位を形成していることがわかります。また、竪穴住居と平地式住居を季節によって棲み分けていたことも判明しました。そして住居はもちろんですが、その他の建物においても土器が保管されている事が分かっています。

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第5図 住居出土の土器(報告書掲載図を一部改変)

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第6図 住居以外の建物出土土器 平面図(報告書掲載図を一部改変)

「住居」とされている建物についてみてみると、カマド周りや食料を貯蔵したとみられる空間から土器がまとまって出土しています。土器が出土していない空間は、周辺より一段高くなっており、寝起きのための空間であった事が推定されています。土器が保管される空間と、その他の空間は意識的に分けられていたようです。江平53号住居跡でも、カマドや貯蔵穴周辺に多くの土器が残される一方で、それ以外の空間からはほとんど土器が出土していません。この土器が出土しない空間に寝起きや何らかの作業を行う空間があった可能性が考えられます。
 ここで注目したいのは、「一世帯」あたりの土器の所有についてです。
 「住居1軒」に残されたとみられる土器を数えてみると、カマドが存在する住居ではおおよそ20点ほどの土器が所有されています。しかし、「一世帯」というまとまりで見てみると、住居以外の建物にも土器が保管されています。作業小屋や馬を飼育していたとみられる家畜小屋、土器の保管庫とみられる掘立柱建物など、建物の機能に応じて多様な形で土器が残されています。そして住居以外の建物に保管された時も含めて数えてみると、世帯差はあるものの、40〜100点と非常に多くの土器を所有していることがわかりました。
 つまり、一般的な集落遺跡の竪穴住居跡から出土する土器は、当時の「一世帯」が所有していた土器の一部分であるのでしょう。

5.おわりに
 こうした事を念頭において江平遺跡53号住居跡を見直すと、これらの多量の土器は「一世帯」が所有していた土器を反映している可能性が考えられます。生活時には竪穴住居以外に保管されていた土器も、住居が廃絶する際に、全て竪穴住居に集めて遺棄したのではないでしょうか。80点近い土器を全て捨ててしまうのですから、単なる住居の建替えや引っ越しでは無いのでしょう。江平遺跡から遠く離れた所へ移動しなければならなくなったのでしょうか。あるいは今まで使用していた土器を、全て処分しなければならないような事件が起ったのでしょうか。 いずれにせよ、このように当時の生活を伺い知る事ができるような、まとまった土器が出土する事例は決して多くはありません。こうした事例は従来「年代のものさし」を作るための編年研究の好材料として積極的に検討されてきました。今後は「道具としての土器研究」や、当時の家族や世帯に関する研究においても、こうした資料を活用する方法を再検討しなければなりません。

引用・参考文献
石野 博信「古代住居の日常容器」『橿原考古学研究所論集』第6集 昭和59年
桐生 直彦「カマドを有する住居址を中心とした遺物の出土状態について(素書)」『神奈川考古』第18号 昭和59年
子持村教育委員会『黒井峯遺跡発掘調査報告書』子持村文化財調査報告書第1集 平成2年
福島県文化振興事業団編『福島空港・あぶくま南道路遺跡発掘調査報告書』12 江平遺跡 福島県文化財調査報告書第394集 平成14年
横須賀倫達「土師器の多量出土について」『福島空港・あぶくま南道路遺跡発掘調査報告書』12 平成14年
杉井 健「古墳時代集落研究序説」『待兼山考古学論集』平成17年
北野博司「東北地方の古代土鍋に関する基礎的研究」『吾々の考古学』平成20年
神林幸太朗「古墳時代の土器所有に関する覚書 ―災害被災建物跡の事例から―」『考古学論究』第19号 時枝務先生還暦記念号 平成29年刊行予定