#061 福島県出土の渥美焼について―断章― 佐藤 俊
1.はじめに
中世のおもしろさとは、ダイナミックな人や物の動きにあると筆者は考えている。日本中世史研究の大家である網野善彦氏は、中世を大陸からもたらされた莫大な銭貨の流入によって貨幣経済が達成され、商人による流通ネットワークが組織化された時代としている(網野1996)。
こういった経済活動の痕跡は文献だけではなく、発掘調査が行われた遺跡の出土品からも良好に読み取れる。例えば大陸から輸入された磁器類、国内で生産された陶器が、北海道から沖縄県まで全国の主だった中世遺跡で普遍的にみられるのはその好例であろう。
中世期の東日本地域では、沿岸には十三湊、宇多湊などに代表される津湊が整備され、奥大道や東海道などの街道が縦横にめぐらされ、海上・陸上の別を問わず、器財を流通させるネットワークが成立していた。とりわけ中世期における東日本地域の流通を考える上で重要なのは、日本海側と太平洋側で2つの流通圏が存在していた点である。それは中世陶器の出土傾向に極めて顕著に現れており、北東日本海側の青森県から北陸地方の遺跡では珠洲焼・越前焼が、一方太平洋側の岩手県・宮城県・福島県・関東地方の遺跡では渥美焼・常滑焼が出土している。
つまり中世の東日本地域では日本海側と太平洋側、2つの「広域流通圏」が存在していた。そして、それは陶器の商圏も同様であり、流通圏ごとのいわゆる「住み分け」が行われていたものと考えられる(第1図)。
第1図 東日本地域における中世陶器の分布(浅野1995より転載)
福島県は浜通り地方が太平洋側に面する一方、会津地方は日本海側の新潟県と隣接している。
つまり日本海側の珠洲焼・越前焼と太平洋側の渥美焼・常滑焼、2つの広域流通圏が交わる地域とされており、実際に福島県内の中世遺跡からは、常滑焼、珠洲焼、八郎窯など在地産陶器をはじめとして様々な産地の中世陶器が出土している。
また、東北地方は大規模な中世窯業地から遠隔地に位置していることから、工人を招聘した独自の陶器生産も行われた。特に福島県内では、須恵器系や瓷器系、もしくは須恵器系・瓷器系の技法を折衷して用いた中世窯跡が多く発見されており、福島県内の遺跡から出土する中世陶器の組成は他地域と比較して極めて複雑な様相を示している。
本コラムでは福島県内の遺跡から出土した渥美焼に着目して、分布・年代・消費遺跡などの様相から、複雑な東北中世陶器の一端を解き明かしていきたい。
2.研究略史
渥美窯とは、渥美半島に広く分布・立地する中世窯跡群(約400基)の名称である。窯跡群は愛知県田原市、豊橋市付近に位置している。渥美焼の生産は平安時代末期の12世紀前葉から開始され、鎌倉時代の13世紀後葉には操業を停止する。
生産された器種には碗(山茶碗)、皿、壺、甕、瓶、鉢、宗教関連具(経筒外容器・光背)、瓦などがあり、碗や壺、甕には灰釉を施釉する場合もある。壺や甕の外面には、線刻やスタンプ文で文様を施すものがあり、中でも神奈川県川崎市南加瀬出土の国宝「秋草文壺」や、重要文化財の「葦鷺文三耳壺」などは、中世陶器における優美さの極致と言えるだろう。
窯跡群の中でも、田原市の大アラコ古窯址群第3号窯からは「三河守藤原朝臣顕長」の線刻が施された壺が出土しており、国衙領の官窯としての性格をうかがわせる。また、大アラコ古窯址群はその歴史的価値の高さから国史跡に指定されている(小野田1973、井上1991)。
東北地方における渥美焼・常滑焼の様相については、藤沼邦彦氏が体系的にまとめている。藤沼氏は、渥美焼・常滑焼の分布が岩手県・宮城県・福島県などの太平洋側の地域にかたよることから、渥美焼・常滑焼が太平洋沿岸の海上交通によって東北にもたらされたとしている。東北地方における渥美焼の消長は12世紀から13世紀の限られた時期としている。また、平泉遺跡群では渥美焼と常滑焼が区別なく大量に出土していることから、知多半島、渥美半島からそれぞれ製品が運ばれたのではなく、いずれかの津湊で一旦集荷して東北地方へ運ばれてきた可能性を指摘している(藤沼1991)。
飯村均氏は福島県内の遺跡から出土した渥美焼が、浜通り地方に点々と分布していることを踏まえ、これを当時の東海地方製品の流通の状況を反映していると指摘している(長佐古・鈴木・飯村1990)。
中野晴久氏は全国の消費遺跡から出土した渥美焼の様相を概観している。中野氏は東北地方の特徴として日本海側から出土した事例は認められず、上述した藤沼氏の論考と同様に岩手県・宮城県・福島県からの出土が認められることを再確認したうえで、特に都市的な遺跡からの出土量が多い点を新たに指摘している註1)。
東北地方における渥美焼の出土量は平泉遺跡群が圧倒的に多く、63遺跡、1232点が報告されている。器種組成は甕・壺・片口鉢が大半を占め、それ以外は山茶碗類や経筒類がわずかに認められる程度としている(中野2012)。
3.福島県における渥美焼の出土した遺跡の分布と特徴
ここでは渥美焼が出土した遺跡の様相について記述して行く。渥美焼の編年観については『愛知県史別編 中世・近世常滑系 窯業3』(2012愛知県史編さん委員会)註2)に準拠する。
福島県内では、管見の限りでは15遺跡で渥美焼の出土が確認されている。太平洋側の浜通り地方はもちろん、内陸部の中通地方や会津地方からも出土している。地域ごとの内訳をみると、浜通り地方7遺跡、中通り地方6遺跡と多く、会津地方は2遺跡と少ない傾向が読み取れる。
浜通り地方では渥美焼の出土遺跡が最も多い。これは都市平泉に渥美焼がもたらされるルートと同様に、福島県内においても太平洋側の海上交通網によりもたらされた可能性が考えられる。また、中通り地方では奥大道を伴う町跡とされる荒井猫田遺跡をはじめ、消費遺跡から出土している。これは内陸の奥大道や、阿武隈川を用いた河川交通によってもたらされた可能性がある。
大石直正氏は、南奥地域における渥美焼・常滑焼の流通について、相馬市の松川浦や、いわき市の小名浜など中世まで遡る太平洋沿岸の津湊や、阿武隈川河口の荒浜などの湊が流通の起点となったこと想定している(大石1995)。
会津地方では渥美焼の出土遺跡が少ない理由として、太平洋沿岸地域から遠隔地ということが想定される。
さらには会津盆地内には12世紀前葉にまで遡る、須恵器系の未発見陶器窯(プレ珠洲)が想定されていることから(八重樫2007)、会津地方では、遠隔地の製品に頼らずとも、在地窯製品で一定の陶器需要が満たされていた可能性が考えられる。
遺跡の種別ごとにみると経塚4遺跡、城館4遺跡、屋敷地2遺跡、寺院1遺跡、町跡1遺跡、寺院もしくは城館1遺跡、墳墓の可能性がある遺跡が1遺跡となる。ただし城館とした、安子島城跡、懸田城跡、小塙城跡では、当該期とされる遺構はみつかっておらず、直接城館に伴う遺物かは不詳である。陣が峯城跡は二重の掘で囲まれた区画施設や、質・量ともに卓越した輸入陶磁器・国産陶器が出土することから、蜷河荘の政治的・経済的な拠点域とされている(吉田2005)。屋敷地は砂畑遺跡と番匠地遺跡の2遺跡が挙げられる。
中山雅弘氏は12世紀後半における砂畑遺跡の性格について、優品とされる輸入陶磁器の存在、古代以来磐城群の中心地であることから、武士階層の屋敷の一角と想定し、番匠地遺跡の性格については、御厩地区の開発に関わる有力者の屋敷と想定している(中山2007)。墳墓の可能性がある遺跡としては東禅寺遺跡が挙げられる。飯村均氏は東禅寺遺跡の被葬者について、当該地域の支配に関連した上級武士級を想定している(長佐古・鈴木・飯村1990)。渥美焼の用途を消費遺跡の様相から考えると、武士など支配者層が用い、食膳具、貯蔵具、経塚の外容器、蔵骨器、などに使用されたと想定される。
第2図 福島県内の渥美焼出土遺跡
第1表 福島県内の渥美焼出土遺跡一覧
第3図 福島県出土の渥美焼
<引用・参考文献>
愛知県史編さん委員会 2012『愛知県史別編 中世・近世常滑系 窯業3』
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郡山市教育委員会 2001『荒井猫田遺跡- 第12・13 次発掘調査報告書-Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ区』
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高橋博志ほか 1993『安子島城跡』 郡山市教育委員会 財団法人郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団
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吉田博行ほか 2005『陣が峯城跡 町内遺跡(陣が峯城跡)範囲内容確認調査報告書Ⅰ』 会津板下町文化財調査報告書第58集 福島県河沼郡会津坂下町教育委員会