#060 瓦にみられる地域色 矢内 雅之
1.はじめに
8世紀中葉以降の渡来系集団と日本列島各地域との関わりは、未解明な部分が多いことが指摘される(註1)。 筆者が以前整理作業に携わっていた武蔵国分寺の瓦は、朝鮮半島系瓦の存在が知られ(石田、太田1938a・b、亀田1999など)、また『続日本紀』にみえる高麗郡・新羅郡【図1】建郡記事などから、古代武蔵国(註2)には多数の渡来人が移住してきたことが知られている。
出土瓦の整理を通して、筆者は従来認識されていたより多くの武蔵国分寺の瓦に、朝鮮系瓦の影響が及んでいる可能性を考えた。
福島県内にも様々な瓦がみられるが、ここでは武蔵国分寺の事例から、地方の特異な瓦について考えてみたい。
図1 古代武蔵国郡域と古代寺院分布図
2.武蔵国分寺の朝鮮半島系瓦
(1)瓦当文様
朝鮮半島の瓦にはいくつかの特徴があるが、武蔵国分寺の瓦では以下の特徴をもつ瓦の存在が指摘されている
(太田1938a・b、石田1941、有吉1986、亀田1999など)。
◆高句麗系瓦(軒丸瓦)【図2】
・六弁蓮華文…27型式
・紡錘形の蓮弁…27・61・90・95-A型式
・V字型の間弁…61・90・95-A
・中房内の区画と区画内の蓮子…171型式
・中房内に蓮子が一つ…27型式
図2 武蔵国分寺の高句麗系軒丸瓦
27型式は東金子窯跡群窯八坂前窯および新久窯で、95-A型式は八坂前窯で生産され、時期は9世紀中葉と考えられている(坂詰1971・1984)。90型式は国分寺創建期の8世紀中葉と考えられている(有吉1998)。
◆統一新羅系瓦(軒丸瓦)【図3】
・蓮弁状の中房表現…81・89-A型式
図3 武蔵国分寺の統一新羅系軒丸瓦
統一新羅系瓦では、81型式が南比企窯跡群久保瓦窯・石田瓦窯でも出土しており、時期は8世紀中葉とされる
(鳩山町教育委員会1993・1995)。
一方で個々の瓦をみると、安鶴宮出土瓦など、年代的には考え難いがなぜか高麗時代の瓦に類似した文様も存在するようである【図4右上】。これまで広く「高句麗系」と称されてきた瓦についても、百済・新羅など高句麗以外の国々、あるいは渤海の瓦との関係性も含め、総合的に考える必要がある(註3)。
図4 武蔵国分寺出土瓦と朝鮮半島出土瓦
この他、軒丸瓦では馬老山城出土瓦と類似したものもみられる【図4右下】。
ことに、軒平瓦では蓮蕾文の中心飾をもつもの(須田2015)や、月城出土瓦に類似したものがみられる【図5・6】。
図5 武蔵国分寺233・234-C・235型式と安鶴宮出土軒平瓦
図6 武蔵国分寺358型式と月城出土軒平瓦
(2)製作技法
製作技法から朝鮮瓦と武蔵国分寺出土瓦との関係が論じられることはなかったが、今日では瓦研究の蓄積から、両者の関係が明らかになりつつある。
朝鮮瓦との関連を比較的見出しうる国分寺瓦としては、はめ込み技法、および瓦当裏面叩きの軒丸瓦がある。
1.はめ込み技法
9世紀代の武蔵国では、高麗郡高岡廃寺、大寺廃寺(ともに埼玉県日高市)、武蔵国分寺およびその生産瓦窯である御殿山窯(東京都八王子市)で「はめ込み技法」(通称高岡技法)と称される軒丸瓦が確認されている。
これは丸瓦がそのまま瓦当の外縁を兼ねているため、瓦当の外縁は上半分のみとなっている【図7上】。
大脇潔氏は近年、はめこみ技法軒丸瓦を集成し(註4)、その大本が朝鮮半島に求められることを指摘している(大脇2007)。注目すべきは、同技法を外縁下半の粘土の有無などをもとに細分している点で、「瓦当の内区と外縁の下半分を一体の粘土で作るSR-1a技法」(大脇2007:p.50)と、「高岡技法」のように瓦当「下半の外縁用の粘土を最初からほとんど省略」するSR-1b技法(大脇2007:p.49)、外縁下半に粘土紐を詰め、その後内区部分の粘土を充填するSR-1c技法の3種をあげている。
武蔵国では高岡技法、つまり外区外縁下半を省略したSR-1b技法が、はめこみ技法として認識されていた。しかし武蔵国分寺の資料をみると、下半にも外縁がありながら、丸瓦剥離状況からはめ込み技法と推測される資料も多々確認された【図7下】。この武蔵国分寺例は宇野信四郎氏所蔵資料のため実見できていないが、類例は武蔵国分寺でも出土している。それらの場合、丸瓦凹面の布目が瓦当側の丸瓦剥離面にネガとポジのように転写されていることから、両者をはめ込み技法で接合している可能性が高い。
そしてそれらの瓦には瓦当裏面を縄で叩いたものが若干存在するようである。これらの技法や瓦当文様の退化から、こうした瓦は東金子窯跡群新久窯(9世紀中葉)よりも新しい時期の瓦とみられる。なお、先述の4型式・5型式にも、はめ込み技法が多々みられるようである。
図7 はめこみ技法(SR技法)と軒丸瓦
2.瓦当裏面の叩き
瓦当裏面を叩いた痕跡のある瓦は古新羅、および統一新羅の瓦に多くみられ、また百済にも存在するという(亀田2006)。武蔵国分寺の場合、概ね東金子窯跡群の新久窯以降の瓦に瓦当裏面に縄目叩きを施した軒丸瓦が確認されるようである。ただし武蔵国分寺の場合、瓦当裏面を強く全面的に叩いている点に朝鮮半島の瓦との違いがあり、両者の関係性は不明である(註5)。
(3)小結
以上をまとめると、武蔵国分寺の場合、創建期にあたる8世紀中葉には統一新羅系、および高句麗系の文様が認められる。9世紀代の瓦については、瓦当文様は、高句麗・渤海・高麗系統の特徴が増える。一方で瓦当裏面叩き、はめ込み技法(SR技法)などは比較的新羅、もしくは百済の瓦に通じる可能性があり、その系譜は一概には断定できない。しかし今回取り上げた瓦の中には、直接的か間接的かは不明ながらも、何らかの形で朝鮮系瓦の影響を受けたものが含まれている可能性がある。
3.朝鮮系瓦からみた武蔵国分寺の特質
冒頭で、武蔵国が高麗郡と新羅郡の2郡を擁することに触れた。『続日本紀』によれば両郡の建郡は、高麗郡が716年、新羅郡が758年とされている。しかし今回取り上げた瓦の多くは9世紀中葉以降に位置づけられ、建郡の年代とは齟齬がある。
文献に渡来人の動向が現れないにも関わらず、朝鮮半島系とも考えられる瓦があるのはなぜか、その意味を考える必要はあろう。実証は難しいが、記録に残らない人々の移動が、こうした特異な瓦に反映されている可能性も考えられる。これは今後の課題である。
亀田修一氏によれば、朝鮮系瓦当文様のみられる出雲・下野・下総・備前・石見の各国分寺のうち、製作技法からも朝鮮瓦との関わりを見出し得るのは下総国分寺であるという(亀田2014)。武蔵国の場合も、はめ込み技法や瓦当裏面叩きは従来用いられてきた技法(註6)と並行して用いられている。先述の2つの技法が朝鮮系の技法であるとしても、それらは在地的な技法の上に導入・受容されたようである。
4.おわりに
武蔵国の事例を述べるにとどまってしまったが、最後に福島県内の事例にも触れておきたい。腰浜廃寺(福島市)は八弁花文軒丸瓦や旋回花文軒丸瓦など特異な瓦が知られているが、このうち八弁花文軒丸瓦については、武蔵国分寺に比較的類似した文様がある。それが武蔵国分寺3型式・11型式であり、両者は中房の巴状の文様や、小花弁の外側に大花弁の縁を表現した弁形などが類似する(註7)。
これらの瓦は文様が単に類似しているに過ぎず、現時点では両者の関係性は不明である。ただし、特異な瓦当文様同士が類似していること、これらの瓦と前後する時期にも、両地域で朝鮮半島系瓦が出土していることは注目して良いだろう(註8)。
図8 馬老山城と武蔵国分寺3型式・11型式軒丸瓦
註
1 菅原祥夫2014「古代会津の渡来系集団-「梓 今来」・「秦人」―」
福島県文化振興財団遺跡調査部 調査研究コラム#009 http://www.iseki.fcp.or.jp/A05/f09.html
2 古代武蔵国は、ほぼ現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部(川崎市・横浜市)にあたる。
3 清水昭博氏、岡田雅彦氏からのご教示による。
4 大脇氏はいわゆるはめ込み技法について、「SR(Side Round tile)技法」の呼称を用いている。
5 清水昭博氏からのご教示による。
6 武蔵国分寺の創建~9世紀代においては、さしこみ技法と称される接合技法が広く用いられている。
これは瓦当裏面に溝を穿ち、丸瓦先端を差し込んだ後補強粘土を充填する接合技法である。
7 腰浜廃寺の八弁花文軒丸瓦については、馬老山城に類例があることを亀田修一氏よりご教示いただいた。
8 腰浜廃寺では創建瓦が百済系とされるほか、三蕊弁蓮華文についても高句麗系と推察されている(伊東・伊藤・内藤1965)。また武蔵国分寺の場合、先述の創建期の朝鮮系瓦に加え、その周辺まで視野を広げれば、武蔵国府に先行して造られた京所廃寺(多磨寺)の創建瓦が統一新羅系とされ(亀田1999)、時期は8世紀初頭と考えられている。この他、北武蔵では寺谷廃寺・馬騎の内廃寺・勝呂廃寺などの出土瓦に国分寺創建以前の朝鮮系瓦がある(亀田前掲)。
引用・参考文献
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