調査研究コラム

#047 竪穴住居の屋根  谷中 隆

「どこの竪穴だっけか?」

 スマートフォンで撮った写真を整理しようと見かえしたところ、こんな写真が出てきた。太い木組みをベースに細い木や竹を格子状に組み、草のようなものを一面に縛りつけている。考古学に携わっている方や歴史好きな方なら一見して何の写真か想像がつくに違いない。そう、復元された竪穴住居の屋根である。復元住居を最初に見たのは、小学生のころ家族旅行で行った長野県平出遺跡のものだったと思う。あの頃はとても珍しかったが、今では各地に作られているから比較的簡単に見ることができる。竪穴住居に特別な興味を持っているわけでも詳しいわけでもないが、外出先にあればとりあえず中に入ってみるだろう。

 写真の屋根は、定期的に燻煙しているためか、ススで黒っぽく変色している。屋根材を長く持たせる方策が取られているということだろう。全体の様子からかなり年月が経っているようだ。撮ったのが普通のカメラならともかく、スマートフォンに入っているので自分がどこかへ出かけて撮ったに違いないが、表示された日付から思い返してみても心当たりがない。さて、どこで撮影したものだったか・・・

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復元住居の屋根か?

復元住居ならば、現在私が所属している福島県文化振興財団にもある。白河市のまほろんにある縄文時代の家と奈良時代の家という2棟の建物だ。まずはこれらの上屋と冒頭の写真を比較して、あたりをつけてみよう。

 縄文時代の家は直径8.4mと大型の円形住居で、壁を持たず地面に屋根が葺き下ろされる入母屋造りの屋根である。垂木や木舞(垂木の上に横に渡した細長い材)にはクヌギやコナラなどの広葉樹の枝が用いられ、太い材の結束には藤ツルを、細い材には麻紐を用いているという。

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まほろん体験広場の「縄文時代の家」

柱の黒さが似ていることは置いておくとして、地面から屋根の頂部へと向かうたくさんの垂木とそれに直行する木舞のあり方は似てなくもない。ただ、自然の枝を使っているために部材の微妙な曲がりが目立つものとなっている。一方、奈良時代の家は周囲に壁を持つ1辺5.8mの方形で、屋根は片入母屋の茅葺きである。垂木は真竹、材の結束には稲縄が使われている。冒頭の写真の住居はこれより柱が太く作りは複雑そうだが、構造的にはよく似ている。こうしてみると、古代あたりを想定した建物の可能性が高そうだ。

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まほろん体験広場の「奈良時代の家」

福島市あたりの復元住居、しかも古代のものなどあったろうか、と考えたあたりでふと思いついた。スマートフォンで撮った写真には、撮影日時とともに位置情報が記録されているのだった。地図上に位置を表示させることも可能だから、撮影した場所は特定できる。そこでさっそく場所を表示させてみたのだが、現れたのは福島市内でも、あるいは史跡や歴史公園のような場所でもなかった。ピンは茨城県西部、南流する鬼怒川右岸の一地点を指し示した。この場所は、私ならすぐわかる。間違いなくわが家である

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2014年1月、NHKの取材を受けた時のわが家

わが家の母屋は明治30年代に建った。歴史的な言い方をすれば近代の家ということになる。屋根はずっと茅葺だが、定期的に葺き替えられているからこの部分は現代の所産だ。規模はそれほど大きくないがさすがに竪穴住居跡よりは大きく、構造は複雑である。昔は屋根裏で蚕を飼っていたらしいが、今は何にも使っていないから屋根裏に上ることはめったにない。そういえば天井から物音がした時、ハクビシンとかが巣を作ったのかもしれないと思いハシゴを使って上がってみたことがあった。はっきり覚えていないが、その時に撮ったのか。

 自宅の屋根なら生まれてからずっと見てきている私が気付かないわけがないのだが、いつも見ているのはほぼ真下からで、斜め横の方向からなど見たことがない。偶然にも復元住居の屋根構造を示す時によくある撮り方になっていたこともあって勘違いしてしまったのだろう。

 それにしても、現代の茅葺民家と復元された竪穴住居の屋根裏構造がこれほど似ているとは思いもしなかった。まほろんの住居の屋根は2棟とも福島県内の茅葺職人が携わったものというから、あるいは職人の方が持つ現代の技術が現れてしまったのではないか、という疑いを持ってしまうほどだ。どのような根拠を基に構造を決めたのか、気になるところである。

 竪穴住居跡(竪穴建物跡とすべきかもしれないが、ここでは従来どおりの竪穴住居跡という呼称を使用する)は、私たちのような遺跡の発掘調査を生業とする者にとっては最もなじみのある遺構の一つである。「竪穴住居跡○軒分」などと、遺構調査にかかる作業量を示す指標として使うこともある。一般的に見ても、歴史の教科書に掲載される竪穴住居の写真やイラストは定番であり、広く認知されている遺構と言えるだろう。

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奈良県佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡に
描かれた竪穴住居 (辰巳1990)

住居を復元する試みは、戦後すぐに実施された静岡県登呂遺跡や長野県平出遺跡の発掘調査を契機とし、昭和26年にそれぞれの遺跡で作られたのが最初だという。もう65年にもなるわけで歴史は長いが、竪穴住居の上屋は現存しないため構造や構築材に関する明確な答えがあるわけでははない。全体の姿を知る考古資料としては土器や青銅器に描かれた画像(奈良県佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡、奈良県東大寺山古墳の家屋飾環頭大刀など)、民俗資料では、国内に残る中世・近世から続くといわれる民家、あるいは国外の民族誌的な記録などが存在する。これらは竪穴住居そのものではないとはいえ、具体的な姿を知る貴重な資料だ。

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西組遺跡B区(石井1990)

中央左側が竪穴住居跡

一方、直接的な資料である発掘調査のデータは膨大なものだが、屋根を構成する木や草は腐朽してしまうため上屋構造すべてを明らかにできる調査例はない。稀に低地の遺跡で柱が生材として残る例などがあるものの、多くは垂木や屋根材の一部が炭化して出土する程度である。特筆される調査例としては、榛名山の火砕流で埋没した古墳時代中~後期集落である群馬県の黒峯遺跡や中筋遺跡での調査成果が挙げられるだろう。住居の屋根は崩落してはいたが、炭化して残存した植物遺体から屋根に葺かれたヨシなどの植物種と使用時の向き、垂木の太さや配置する間隔などといった多くの事実が知られることとなった。上屋構築材に土を使用したことを確認した点も重要で、その後の家屋復元に大きな影響を与えている。

 ごく最近の例としては、昨年調査された秋田県大館市の片貝家ノ下遺跡を挙げたい。竪穴住居跡の屋根材が残っていたと報道されたため草葺きのままの屋根がついに発見されたのかと思ったのだが、現地で実見したそれは火山灰にパックされた「土壌化した屋根」であった。期待したものとは違ったが、それでも上屋が潰されていなかったことで寄棟構造の上屋の傾斜角度が45度であること、土屋根ではなく植物質のみで構成されることなどが明らかにされている。

 片貝家ノ下遺跡の現地説明会では、屋根の角度が判明した点が特に強調されていた。これはつまり、こうした単純な事柄さえもこれまで明確ではなかったということでもある。発掘調査は竪穴住居の上屋構造を明らかにしてきたが、まだまだ不確かな部分は多い。

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秋田県片貝家ノ下遺跡で発見された竪穴住居跡 (秋田県教委2015)

こうした状況で建物全体を復元しようとすると、不明な構造や使用材料については推測を働かせて補うこととなる。このためどこがどういう根拠で作られているか確かめるというのも復元建築を見る際の一視点となるのだが、すべて事実を基に作られたように見えてしまうことは少なくない。それが良い復元なのかもしれないが、事実を基に作られた部分とそれ以外を明確に識別できる方が学問的には重要のようにも思える。このあたりは復元に対する考え方が問われるポイントだろう。

 史的建造物や遺跡の保存に関しては、イコモス(国際記念物遺跡会議/ICOMOS/ International Council on Monuments and Sites)という国際組織がある。ここで1990年に採択した考古学的遺産の管理・運営に関する国際憲章の中には、復元に関連した次のような記述がある。

 「再建は2つの重要な機能を果たす:実験的な研究と解釈である。しかし、それらは残存する考古学的な証拠を乱すことを避ける為に非常に慎重に行われるべきであり、オーセンティシティを達成する為にあらゆる資源から得られる証拠を考慮すべきである。」

 ここで言う「再建」という言葉は復元と近い意味と捉えることができると思うが、「再建」にはオーセンティシティ、つまり真正性、信憑性を確保することが必要で、「実験的な研究と解釈」という機能があるとする。「再建」はあくまで研究のための一手段との位置付けなのだろう。

 では次に、文化庁月報平成24年7月号に掲載された復元整備に関する記述を引用してみよう。
 「復元整備の目的は,なんといっても史跡を理解しやすくする端的な効果が抜群であるということです。城郭であれば「天守閣」「櫓」「門」「庭園」,寺院であれば「塔」「本堂」,集落遺跡であれば「竪穴式住居」「倉庫」などの復元建物などを設置することによって格段に分かりやすくなります。しかしながら,文化財保護の立場からは,この復元事業については,時には「根拠に乏しい」「ねつ造に近い」「かえって正確な理解の妨げになる」場合もあるとして,慎重な意見,ネガティブな意見も少なくなく,文化財の「真正性」をどのように考えるかという難しい問題も含んでいます。(中略)文化庁は,史跡の復元については,先史時代(縄文・弥生)の史跡については比較的緩やかな基準で,一方,中世以降の社寺,城郭などの史跡には,かなり厳しい基準で臨んでいます。(中略)「近世以降の史跡であれば,絵図面,写真,その他工事の記録文書などの客観的な資料が発見される可能性が高いのに対して,それ以前であれば,そのような客観的な証拠に乏しいということがその大きな要因です。」(矢野 2012)

 これは史跡整備について記述したものだが、復元建築の果たす役割はイコモスの言う「実験的な研究と解釈」だけではなく、史跡を理解しやすくし、遺跡や遺構を「視覚的・空間的に示すことのできる」点を重視していることがわかる。そして、資料に乏しい古代以前などの建物の場合、「真正性」(前掲の国際憲章にあるオーセンティシティ(authenticity)を念頭に置いての言葉だろう)に留意しながらも「比較的緩やかな基準」でもって復元していく必要があるという。事実を集めた上で、足りない部分は推測を働かせる復元を「あり」だとする考え方は穏当な落としどころだろう。元来イコモスは、考古学的遺産を石造建築を中心に考えていると思えるふしがある。たとえば1965年に採択したヴェネツィア憲章(記念建造物および遺跡の保全と修復のための国際憲章)では、「記念建造物の理解を容易にし、その意味を歪めることなく明示するために、あらゆる処置を講じなければならない。しかし、復原工事はいっさい理屈抜きに排除しておくべきである。ただアナスタイローシス、すなわち、現地に残っているが、ばらばらになっている部材を組み立てることだけは許される。」といった記述はまさにそうだ。断片ばかりの木材など、組み立てられるはずもない。木造建築の発掘調査の現状と復元のあり方については、むしろ日本などからイコモスへと理解を得るための働きかけをする必要があるのかもしれない。

 話が大きくそれてしまった。まほろんにある2棟の復元住居に話を戻すと、上屋構造は富山県桜町遺跡、福島県法正尻遺跡など多数の発掘調査成果を基に作り上げられたものであり、当然だが現代の職人が勝手に作ったものなどではないのだった。見た目が現存する茅葺き民家であるわが家の屋根と似ているのは確かだが、似た形を同じ材料で作れば必然的に構造は類似するとも考えられる。もしも原始・古代からの草葺き技術が現代にも受け継がれているのだとすれば、茅葺の家に住まう私としてはうれしい限りだ。いつか草が葺かれたままの竪穴住居跡が発見され、この目で屋根を確かめる日が来ることを期待したい。

 ところでわが家の屋根についてだが、実は写真を撮ったころは傷みがひどくて今にも雨漏りしそうな状態なのであった。そのため部分的に葺き替えをしていただいたのだが、そのあたりのことついては次の機会に書くことにしよう。

【参考文献】
・秋田県教育委員会 2015『片貝家ノ下遺跡見学会資料』
・浅川滋男 編 1998『先史日本の住居とその周辺』同成社
・石井克己 1990「黒井峯遺跡の集落構造研究(1) —榛名火山の爆発で埋もれた西組遺跡—」『群馬考古学手帳
      VOL.1』群馬土器観会
・石野博信 1990『日本原始古代住居の研究』吉川弘文館
・大塚初重・白石太一郎・西谷正・町田章編 1996『考古学による日本歴史15家族と住まい』雄山閣
・鬼頭清明 1985『古代の村』岩波書店
・辰巳和弘 1990「家屋文鏡の再検討」『高殿の古代学』白水社
・都出比呂志 1986「第五章 家とムラ」『新版 日本生活文化史 第一巻 日本的生活の母胎』河出書房新社
・文化庁文化財部記念物課監修 2005 『史跡等整備のてびき―保存と活用のために―Ⅰ総説編・資料編』
・矢野和彦 2012「史跡の現地保存、凍結保存、及び復元について」『文化庁月報平成24年7月号(№526)』
・山本輝雄 1990「住居の上屋構造と建築材」『古墳時代の研究 2 集落と豪族居館』雄山閣
・雄山閣 2015『季刊考古学 第131号 特集「竪穴建物」研究の可能性』