#046 もう1つの製鉄工人系譜 ―信夫郡安岐里と安芸国- 菅原祥夫
1. はじめに
福島県北部~宮城県南部の太平洋側沿岸(図1左)は、大化前代に国造制の北限範囲であり、蝦夷社会と接する政治的境界だった。これまで筆者は、政権が7世紀後半以降に伝統的な浮田(宇多・行方郡)と近江の交流関係を利用して、東日本最大級の製鉄コンビナートを成立・展開させた経緯を明らかにし(図2)、対蝦夷政策に果たした固有の役割を考察してきた(菅原2010・2011・2015a)。今回は、内陸との関係に焦点を当て、新たな研究素材を提示したい。
図1 曰理~行方郡の遺跡分布と木簡
図2 瓦の関係
2. 問題提起
2014年12月、宮城県山元町熊の作遺跡から里制下(701~717年)の木簡が発見され、話題となった。正式報告書は未刊行であるものの註1)、既に実測図(図1右)の公表と次の見解が示されている(宮城県教育委員会2015、吉野武2015)。
A:この木簡は、太平洋側沿岸で最北端の旧国造域(曰理国造)である曰理郡に、信夫郡安岐里の人員を徴発し
たことを記している。具体的な徴発先は、周囲の製鉄遺跡群と推定される。
B:現状では、曰理郡の製鉄が、宇多・行方郡のように7世紀後半まで遡るかどうか不明だが、のちの郷にあた
る「里」の記載から、少なくとも多賀城創建前の8世紀初頭には操業していたことがわかる。
C:郡司には他郡の人員を徴発する権限がないので、この広域施策は国府(郡山Ⅱ期官衙)の支援・指示によっ
て行われたとみられる。つまり、郡衙が現地実務を担い、国府が関与した生産形態を出文字資料から初証明
した点で、重要な発見と言える。
しかし、ここで取り上げたいのは、沿岸に内陸の人員が徴発された事実である。両者の直線距離は、阿武隈高地を挟んで約40kmにも及ぶ。ここには、特別な意味があったのだろうか。そのために、まず信夫郡の沿革を確認することから始めたい。
3.信夫郡の沿革
信夫郡は、太平洋側内陸で最北端の旧国造域(信夫国造)であり、内部に2つの有力豪族圏が認められる(図3)。
図3 信夫郡の遺跡分布
・南部(福島県福島市)……………郡衙所在地(≒旧国造本拠地)
・北部(福島県伊達市~国見町)…非郡衙所在地
このうち南部(図3左)には、沿岸の宇多郡の黒木田遺跡(図1左-3)と並ぶ東北最古の寺院の1つの腰浜廃寺跡が、7世紀後半に建立された。創建瓦は百済系瓦が使用され、黒木田遺跡の高句麗系瓦と共に、中間地域を飛び越えた西日本からの伝播となる(図4)。このことは、旧国造制の北限範囲が蝦夷社会をにらむ鎮護国家の要として、政権から重視されたことを示唆している(佐川2008)。
一方、非郡衙所在地の北部(図3右)には、拠点集落の沖船場遺跡群に関東系土師器が定量保有されている。とくに、沿岸の製鉄開始年代と重なる7世紀後半は、仙台平野~大崎地方に爆発的に広がる北武蔵系坏(図5)が註2)、旧国造域の中では唯一確認できる。このことは、蝦夷社会と直接接した位置関係を反映して、東山道ルート中心に展開される柵戸及びその先行移民の窓口であったことを示している(菅原2013)註3)。 以上から、信夫郡は沿岸諸郡と相互補完関係で、対蝦夷政策の後方支援を果たしたと考えられる。
図4 系譜の渡来系瓦
図5 北武蔵系坏
4.2つの「曰理」「静戸」
次に、この考古学的所見を史料と対照したい。
従来看過されがちであるが、信夫郡と沿岸諸郡は同一郡郷名を共有していた。『倭名類聚抄』から、次の2例が抽出できる。
A:曰理郡曰理郷-信夫郡曰理郷
B:伊具郡静戸郷-信夫郡静戸郷
陸奥国内にみられる同一郡郷名は、柵戸の出身地と移配先に対応した旧国造域と蝦夷社会の関係が原則であり(例えば白川郡-栗原郡白川郷)、旧国造域内部のA・Bは特殊例である。しかも、曰理・伊具・信夫郡が、ちょうど旧国造域の北限ラインに一致しているのは、偶然でないと考えられ、同一氏族の配置が想定できる。
このことは、「沿岸と内陸側の相互補完関係」に対応し、郡域を越えた人員徴発の基本前提になったものと推定される。
5.「安岐」と「安芸」、製鉄
以上を念頭に置いて、徴発先が製鉄遺跡群だった背景を検討したい。
(1)史料の検討
ここでは、まず徴発された4名が、信夫郡の中でも安岐里(郷)に帰属したことに注目してみる。当該里(郷)の成立は、「あき」の音読みが一致すること、『先代旧辞本紀』などに信夫と安芸の国造が同祖と記されていることから、安芸国の住民が集団移住したことに契機を求める、大胆な見解が発表されている(鈴木2008)。
陸奥国にとって、あまりにも遠い山陽地方からの移民説は、躊躇を感じる向きが多いも知れないが、本論に重ねると大変興味深い。というのは、安芸国は古代有数の鉄生産地の1つであり、信夫郡安岐里(郷)からの人員徴発と結びつく可能性が浮かび上がるからである。 そこで、「あき」の分布を『倭名類聚抄』で全国検索したところ、西日本に集中し(a~d)、国・郡・郷が揃うのは、安芸国しかないことが確認できた(d)。
a:近江国蒲生郡安吉郷
b:美濃国恵奈郡安岐郷
c:土佐国安芸郡
d:安芸国安芸郡安芸郷
(2)百済系瓦の系譜
さらに、考古学的傍証となり得るのが、腰浜廃寺跡の創建瓦と思われる。この百済系瓦は、水切りと呼ばれる瓦当下端の突起を欠くものの、備後国寺谷廃寺跡の創建瓦と文様構成がきわめてよく似ている(図4-1・2、伊東1977)。安芸国は、備後国と隣国で、山陰地方の出雲国を含めた範囲は、いわゆる水切り瓦の分布に象徴される同一文化圏であり(小林2014・松下1993)註4)、近江、北九州と並ぶ西日本有数の鉄生産地(潮見1986・菱田2007)と重なっている。この現象は、黒木田遺跡の創建瓦の祖形が、製鉄技術体系の故地と同じ近江国に求められることに対応し(図4-3・4)、密接な相関関係が指摘できる。
こうした複数の状況証拠から、信夫郡安岐里(郷)からの人員徴発は、安芸国出身の製鉄経験者あるいはその第二世代の存在に背景が求められると思われる。彼らは、沿岸の製鉄工人を補佐したのであろう。もちろん、製鉄に関わる人員徴発は他郡からも行われたのであろうし、熊の作遺跡の木簡は一端を示すに過ぎない。しかし、そこには特別な理由があったとみるのが、本コラムの結論である。
かつて筆者は、関東ばかり目が向けられてきた遠隔地間交流に、信州北部~北陸と畿内(近江・宮都)を視野に入れていく必要性を指摘したが(菅原2013)、今回、山陽地方をを加える結果となった。律令国家形成期の東北では多面的交流が繰り返され、その中で旧国造制の北限範囲は、対蝦夷政策に独自の役割を果たしたと考えられる。
また、浮田(宇多・行方郡)と近江の状況から、信夫郡と安芸の交流起点は大化前代までさかのぼる可能性がある。今後の課題としておきたい。
※本コラムは、今後発表予定の論文を抜粋したものである。そのため、最終形態では一部見解の修正箇所が生 まれる可能性のあることをお断りしておきたい。
<註>
1) 調査担当者の初鹿野博之氏から、今秋刊行の予定とご教示いただいている。なお、図1の転載は宮城県教
育委員会のご配慮を得た。
2) 筆者撮影。掲載に当たって桑折町教育委員会のご配慮を得た。
3) 信夫北部は、平安時代末期にも政権側と在地勢力の接点となった。奥羽州藤原氏が源頼朝軍勢の侵入を防
ぐため、厚樫山防塁を築いたことが知られている。
4)水切り瓦の分布については、最新情報を亀田修一氏にご教示いただいた。
【引用参考文献】
・伊東信雄1977「福島市腰浜出土瓦の再吟味-広島県寺町廃寺跡出土瓦との比較について-」『考古論集』慶祝
・松寿和先生六十三歳論文集
・小笠原好彦・林博通編1989『近江の古代寺院』近江の古代寺院刊行会 真陽社
・京都国立博物館2000『畿内と東国の瓦』
・小林新平2014「中国地方における造瓦集団の展開-いわゆる水切り瓦の事例-」『考古学研究』60巻4号
・佐川正敏2008「討論」『シンポジウム報告 天武・持統朝の寺院造営-東日本-』帝塚山考古学研究所
・潮見浩1986「鉄・鉄器の生産」『岩波講座 日本考古学3』岩波書店
・菅原祥夫2010「居宅と火葬墓」『研究紀要2009』福島県文化財センター白河館
・菅原祥夫2011「宇多・行方郡の鉄生産と近江」『研究紀要2010』福島県文化財センター白河館
・菅原祥夫2013「陸奥南部の国造域における大化前後の在地社会変化と歴史的意義」『日本考古学』第35号
日本考古学協会
・菅原祥夫2015a「製鉄導入の背景と城柵・国府、近江」『特集東北古代史の再検討 月刊考古学ジャーナル
5月号 』№669 ニューサイエンス社
・菅原祥夫2015b「律令国家形成期の移民と集落」『古代の東北③ 蝦夷と城柵の時代』吉川弘文館
・鈴木啓2010『南奥の古代通史』歴史春秋社
・内藤政恒1965「腰浜廃寺の古瓦の性格と位置」『腰浜廃寺』福島市教育委員会
・菱田哲郎2007『古代日本 国家形成の考古学』京都大学学術出版会
・藤木海2006「有蕊弁蓮華文鐙瓦の展開とその背景」『福島考古』第47号
・松下正司1993「水切瓦再考」『考古論集』潮見 浩先生退官記念事業会編
・宮城県教育委員会2015「山元町熊の作遺跡と亘理郡南部の遺跡群」『古代国家形成期の地域社会-山元町の調
査から-』宮城県考古学会
・山田隆博2015「山元町の復興調査と合戦原遺跡の横穴墓群」『古代国家形成期の地域社会-山元町の調査から
-』
・宮城県考古学会 山元町歴史民俗資料館2007『亘理郡の古墳時代~古墳と生きたひとびと~』
・吉野武2015「熊の作遺跡出土の木簡と墨書土器」『第41回古代城柵官衙遺跡検討会-資料集-』