#092 土器の突起が好きだったの?! 江原英
現在行われる葬儀の時、棺の中に亡くなった人が身に着けていたもの、愛用していたもの、好きだったものなどを入れる風習があります。この棺に入れるものを「副葬品」と呼びます。
今回は栗林遺跡の調査成果に関わる、縄文時代の「副葬品」と風習についてのコラムです。
1.栗林遺跡SK500の突起出土状況
令和3年度に行われた下郷町栗林遺跡の5次調査では、注目すべき遺構や遺物が多数確認された。縄紋時代中期から後期の複式炉住居跡・フラスコ状土坑等からは、関東地方との関りを示す土器が多く確認されるなど、貴重な調査成果が明らかになりつつある。ここでは墓と推定される土坑から出土した遺物及びその出土状況について採り上げる。それは、「対の突起」2点が同方向同角度で出土した土坑(SK500)で、既に現地説明会やHPで紹介してきたが、あらためてその意義について確認すると共に、出土状態や土器の観察が重要な視点となる旨指摘し、併せて類例など広くご教示を賜りたく思い、コラムとして示す。
はじめに栗林遺跡のSK500について確認する。この土坑は縄紋期集落内の住居跡が集中する区域の中に位置している。この土坑がある8×4mほどの範囲では住居跡は見られないが、その外側では大木9式~同10式期の住居跡が密集・重複して確認された。
SK500は重複する陥し穴SK501と共に確認され調査を進めた。当初陥し穴の方が新しいと考えたが、その後の検討により、陥し穴SK501が埋まった後にこの土坑が作られたと判断している。SK500の規模は113×100㎝、深さ30㎝で、「タライ」状のやや浅い楕円形土坑である。この土坑のほぼ中央上位で逆位の深鉢底部が確認され、これに重なるように石皿片が出土している。突起2点はやや西寄りの底面上15~18㎝の位置で出土した。突起は上面が窪むもので、2点いずれも突起上方側が東南東を向き、土器の表面側を上にして(水平に近い状態で)出土している。突起2点は、文様の表現や胎土・質感等から、同一個体の突起2単位部分の破片と推定される。土坑の覆土観察では、他の土坑や住居跡覆土と大きな違いは認められなかった。<写真1・2>
写真1 栗林遺跡SK500遺物出土状況
写真2 SK500出土突起
調査時点で人骨は出土せず、現時点で土壌水洗の整理や理化学分析を行っていないことから確定的な判断はできないものの、遺物出土状態をはじめとする状況証拠から「墓」の蓋然性が高いと考えている。大きな石や石皿は、しばしば墓と推定される土坑内から出土し、人骨の上に置かれたかのような出土状態を示す例も多い<図1,2いわき市大畑貝塚、本宮市高木遺跡SK75、SK210>(文献1、2、3)。これは「抱石葬」(だきいしそう)などと呼ばれている。また土器の底部が人骨の上から出土している例もある(栃木市藤岡神社遺跡)。
図1 大畑貝塚B地点4号人骨(文献2より引用)
図2 高木遺跡の土坑内遺物出土状況(文献3より引用)
また、墓と推定される土坑からは、首飾りや耳飾りなどの装身具が副葬品として出土することがある他、深鉢、浅鉢、注口土器等の完形に近い土器が出土する事例も多い。では突起などの土器破片が出土している事例はあるのだろうか?
栗林遺跡5次調査の整理作業は進行中のため確定できないが、現段階ではこの突起と接合する本体の土器は確認されていない。少なくともこの土坑内出土遺物では認められなかった。つまり土器本体を土坑内に持ち込んだのではなく、突起のみが入れられた、ということである。そして普通に「投げ捨てる」のであれば、このような出土状態とはならない。つまり、意図的に突起2点を置き、その状態が維持されたという推定ができるであろう。
積極的に当時の状況を復元すれば、土坑内に遺体を安置→石及び深鉢底部を置きながら土で埋めていく→土の上に本体から離された(故意に折り取られた)突起2点を置く→土坑内に土を入れて埋め戻す、という「葬送儀礼」の流れを想定できる。遺体の上に直接突起を置いた可能性もあろうが、腐敗・骨化~土流入の過程を考えると、土の上に置いたとの考えの方が整合的なように思えるが、遺体の姿勢や位置の問題を含め、今後の検討が必要となる。
なおこの突起が付く土器自体もこの土器型式「大木10式」としてはやや珍しく、既にHPで紹介した二本松市田地ヶ岡遺跡例の他にも、楢葉町馬場前遺跡52号住居跡例(文献4)などがある。福島県内の出土例では1単位突起の例も目立つが、地域・時期を広げてみると2単位や4単位の例も認められる。本例の突起2点が同一個体であることはほぼ間違いなく、少なくとも2単位以上の突起を有する土器、と言うことはできよう。
さて、SK500に葬られた人と、「対の突起」との間にはどのような関係があるのだろうか?また突起を副え置いた人と故人とはどのような関係だったのだろう?突起を折り取ったのはいつだったのか?残りの本体の土器はどこにいったのだろう?なぜ本体ではなく突起のみを置いたのか?2点という数に意味はあるのか?・・・
多くの疑問が湧いてくるが、ここでは栗林遺跡SK500例のような、突起を副葬品としている例はあるのか、という考古学的に確認できる点から少し探ってみたい。
2.研究史上の指摘
これまで突起の故意破損や突起破片の集中的な出土、突起のみが土坑内から出土、といった事例があり、また突起自体の象徴的な意味についての研究も認められる。管見の限りであるが、ひとまずそれらを確認しておこう。
土肥孝・中束耕志・山口逸弘の三氏が群馬県の中期集落跡である房ヶ谷戸遺跡における口縁部文様が剥がされている土坑出土土器の事例に注目し、土坑内に打ち欠いた突起を遺棄する事例についても例を示された(文献5)。更に群馬県内の類例についても探索され、三原田遺跡などで象徴的な突起が土坑から出土した事例等について言及された<図3>。土器の突起について「副えもの」としての位置づけも可能であるとされ、土器扱いの問題が重要な旨示されている。
図3 群馬県の例:房ヶ谷戸遺跡・三原田遺跡(文献5より引用)
水沢教子氏は長野県の中期集落跡である屋代遺跡群の整理の過程で、4単位突起深鉢の内1単位のみ欠損している例や突起に線状の傷が観察できた突起破片例の確認から、突起の製作技法も確認しつつ詳細な突起部割れ口の観察、X線透過観察を行い、突起破壊の可能性について論じている<図4左>(文献6)。そして突起を破壊する目的について、墓への副葬、土器の機能停止、埋甕祭祀の一環などを想定されている。また長野県県立歴史館の企画展図録(文献7)の中では墓への埋葬に際して突起を入れている様子を復元イラストとして示されている<図4右>。
図4 長野県の例:屋代遺跡群(文献6・7より引用)
寺崎祐助氏は、新潟県村上市春木山遺跡で本体が出土せず馬高式の突起のみが出土した袋状土坑があることに注目し、類例を含め検討されている(文献8、9)。寺崎氏は同様の例として、津南町道尻手遺跡の遺構外から単独的に出土した突起の例、秋田県男鹿市大畑台遺跡捨て場から単独的に突起のみ出土した例、魚沼市清水上遺跡出土のほぼ完形ながら4単位の突起のみを欠いている事例等を指摘している。いずれも馬高式(大木8a式新段階)で、突起のみまたは突起が取り外された土器が別の遺跡にもたらされている可能性についても言及されている<図5>。
図5新潟県の例:春木山遺跡(文献8・9より引用、一部改変)
馬高式突起の残され方については、津南町なじょもん企画展図録コラム中でも指摘がある。加えて湯沢町川久保遺跡では多量の王冠状突起が窪地から出土しことも触れられている。(文献10)。
千葉県では上守秀明氏が成田市野毛平A遺跡の土坑から出土した後期の4単位波状縁深鉢について紹介する中で、遺存している突起は1か所のみで、3か所の突起が無いことについて意図的に割り取った可能性を指摘されている(文献11)。また類似する器形・文様構成の野毛平上之内遺跡出土の土器についても把手欠損の類例としている。
千葉県市原市に位置する破格の規模を有する中後期集落跡武士遺跡の調査整理をされた加納実氏は、後期初頭の関西系土器群が出土した711・712号土坑について検討する中で、異系統の「誘目性を帯びた把手部」を副葬品として選択埋葬し、「誘目性にかける破片」は一括して周辺の穴へ廃棄したとのモデルを想定されている(文献12)。
以上の他にも、埼玉県における後晩期安行式期の「祭祀遺物集中地点」で突起が多いことが各報告書で触れられているほか、田部井功氏や細田勝が論文中でこの事象について指摘されている。(文献13、文献14)。特に田部井氏は安行式期以前の突起も「祭祀用具として採集」していることを想定されている。また縄文土器の儀礼に関わる研究を進めている中村耕作氏も注口土器把手部の打ち欠き例などについて論じている(文献15)。
3.若干の類例紹介と課題
前節でみてきた重要な指摘を踏まえ、筆者が確認した限りの類例を少し紹介しておく。遺憾ながら、手許にある報告書にほぼ限定しており、しかも本来再度の実物観察が必要であるにも関わらず、現時点ではなしえていない。
中期では小山市寺野東遺跡SK1172(文献16)から出土した中期中葉焼町類型の土器を示す<図6左>。しばしば分布の東端例として注目されている個体である。4単位の突起を有する土器だが1単位のみ欠損している。ほぼ完存であるにも関わらず整理の時点でもこの突起破片は確認できず、折り取られていたのではないかとの指摘を受けた記憶もある。那珂川町三輪仲町遺跡(文献17)のSK145は馬高式系統の良好な個体で、口縁突起が2+2(A+B+A+B)となる構成のうち「B」の突起1か所が欠損している<図6右>。
図6 栃木県中期中葉の例:寺野東遺跡・三輪仲町遺跡(文献15・16より引用)
中期末~後期では寺野東遺跡のSK911例をまず示す<図7左>。裏面に人面状の文様が描かれる突起が土坑内から出土している。SK648から出土した称名寺式終末段階の土器では、上半部が残りの良いにも拘らず1単位の突起部分のみ欠損しており、故意破損の可能性をうかがわせる<図7中央>。SK174出土の称名寺式関沢類型の土器(文献16、18)も4単位波状縁の内対向する2単位が欠損しており、故意欠損の可能性がある<図7右>。本宮市高木遺跡49号埋設土器(文献3)のほぼ完形となる称名寺式の突起が4単位の内1か所欠損しており、突起故意破損の可能性がある。
図7 栃木県後期初頭の例:寺野東遺跡(文献16・18より引用)
写真3 高木遺跡49号埋設土器
以上の他にも気になる事例は探索されたものの、実物の確認がより必要なものも多く、紹介を断念した。研究史上での類例も含め、時期的な偏り、地理的な偏在性があるか等についても論じる段階にはない。但し、馬高式の突起や人面突起など、象徴性を強く窺わせるものが目立つ傾向はあるかもしれない。中期末~後期初頭の鳥形把手や前期の獣面突起などもチェックしてゆく必要があろう。いずれにせよ、事例の蓄積が求められる状況と言える。
確認不足による多くの遺漏があることは認めなければならないが、報告書の図や写真の提示及び記載からの読み取りに限界を感じたことも付記しておく。調査時点において、注目される遺構・遺物があった場合、遺物出土状態の観察・記録及び報告時における出土状態記録の提示、所見の記述が重要となることがあらためて認識された。更に、水沢氏が行われたような土器の割れ口破断面を含めた詳細な観察、欠損部位の記録、図や写真の提示方法についても検討課題となる。展開の写真・拓本・図などの提示も有効であろう。
栗林遺跡SK500が提起した突起故意破損例から考察すべき課題は、突起自体の象徴性の問題、「土器扱い」の問題に加え、葬送儀礼や副葬品に関わる問題など多岐に亘る。こうした課題に対して、ここでは単なる問題提起に留まったが、今後の調査や整理に多少でも活かすことができればと考えている。類例や研究史上の指摘など突起故意破損に関わる例についてご存じの方は、ご教示いただきたく、ご連絡の程お願い申し上げます。
栗林縄文人の副葬品「対の突起」は、当然故人に供えたものですが、時代を超えて今の私たちにも何かを伝えてくれたのかもしれない。
故人が突起好きだった訳ではないだろうけど・・・
引用参考文献
文献1:馬目順一1975『大畑貝塚』いわき市教育委員会
文献2:新井達哉2019「福島県における縄文時代墓制の諸様相」『列島における縄文時代葬墓制研究の諸様相』縄文時代文化研究会
文献3:大河原勉ほか2003『阿武隈川右岸築堤遺跡発掘調査報告書3-高木・北ノ脇遺跡』福島県去育委員会
文献4:門脇秀典・小暮伸之・坂田由紀子ほか2003『常磐自動車道遺跡調査報告34-馬場前遺跡(2・3次調査)』福島県教育委員会
文献5:土肥孝・中束耕志・山口逸弘 1996「紋様を剝がされた土器-縄文時代中期の土器廃絶例について-」『研究紀要』13 財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団
文献6:水沢教子2003「縄文土器の突起周辺のX線透過観察-長野県更埴市屋代遺跡群の研究その3-」『長野県立歴史館研究紀要』9号
文献7:長野県立歴史館編2005『地下4mの「縄文伝説」~屋代遺跡群 愛と出会いの4千年~』
文献8:寺崎裕助2019「縄文土器の突起を考える-村上市春木山遺跡をはじめとした事例の紹介と意味・役割の模索」『新潟考古』30
文献9:吉井雅勇ほか2015『春木山遺跡Ⅱ』村上市教育委員会
文献10:佐藤雅一ほか2014『魚沼地方の先史文化』新潟県津南町教育委員会・信濃川火焔街道連携協議会
文献11:上守秀明2020「成田市野毛平A遺跡出土の縄文土器二例」『研究連絡誌』83千葉県教育振興財団
文献12:加納実2021「市原市武士遺跡の調査成果-補遺-」『研究連絡誌』84千葉県教育振興財団
文献13:田部井功2021「縄文晩期祭祀遺物集中遺構で観察される物と情報の交換-加須低地(埼玉)に立地する晩期遺跡のネットワーク-」『利根川』43
文献14:細田勝2019「縄文晩期の祭祀遺物集中-小林八束遺跡Ⅰ遺跡を中心に-」『季刊考古学』148
文献15:中村耕作2019「縄文土器と儀礼」『季刊考古学』148
文献16:江原英1999『寺野東遺跡Ⅱ』栃木県教育委員会・栃木県文化振興事業団
文献17:塚原孝一1994『三輪仲町遺跡』栃木県教育委員会・栃木県文化振興事業団
文献18:横浜市歴史博物館2016『企画展称名寺貝塚 土器とイルカと縄文人』