#043 会津地域における古代末の建物群と井戸 ‐鶴沼C・西坂才遺跡の調査事例をもとにして‐ 作田 一耕
1.はじめに
人間が生活するにあたって必要なものは、衣・食・住に伴っていろいろあるが、その中でも水は優先度が最も高いもののひとつである。
利用する水には、灌漑用水や生活用水などがあり、元々は河川や沼沢などに依存していたのであろうが、弥生時代以降、定住生活が始まり、集住から都市を形成していく過程で、井戸を掘削して湧水を利用する頻度が高くなってくる。
気候変動による甚大化が著しいので比較は難しいのかもしれないが、現在でも毎年のように洪水災害は起きている。しかし、灌漑設備が未発達で、水を制するに未熟な時代において、水を得るために河川の近くに居住するというのは、我々以上のリスクを覚悟しなければならなかったのではないだろうか。
微高地上に集落を形成し、井戸を掘削するのは、そのことでより容易かつ安全に水を得るためだったのであろう。
さて本稿は、井戸跡と掘立柱建物跡群(以下、「建物跡群」という。)について考えたい。
具体的には、会津若松市高野町大字中沼字鶴沼に所在する鶴沼C遺跡注1調査の1号井戸跡(以下、「鶴沼C‐SE01」とする)と、同大字中沼字西坂才に所在する西坂才遺跡(2次調査)注2の1号井戸跡(以下、「西坂才‐SE01」とする)をもとに、それに対応する建物跡群との関係や両遺跡周辺の状況について見ていく。
これから記述を進めていく上で、まずは本文中で使用する井戸の構造や建物跡の名称について以下にまとめておこう。
井戸については、多くの先学の研究があるが、型式については宇野隆夫氏の分類注3がまとまっており、その後の研究でも、それに依拠して論じられることが多いので、本稿でもこの分類を引用する。
この中で、形式分類の前提として、井戸を構成する部位の名称を、
1)井桁(いげた):水を汲む人の安全をはかり、汚水の流入を防ぐため地上に設ける部分
2)井戸側(いどがわ):井壁の崩壊を防ぐため地下壁面に設ける部分
3)水溜(みずため):湧水を溜めるため底に設ける部分
としている。
“井桁”以外は他の名称を用いる研究者もいるが、機能にほとんど差異はないので、これについても宇野氏の名称を用いる。
つぎに建物跡であるが、今回取り上げる会津地方の調査例では、比較的規模の小さい総柱建物(2間四方または2間×3間)と中~小型および大型建物跡がセットになることが多い。
このうち、総柱建物跡は次のことから、“倉庫跡”と判断した。
・総柱建物跡は全てではないが、他の建物跡から離れた場所にある傾向が認められる。
(このことについては、「諸国倉庫 不可相接 一倉失火 合院焼尽 自今以後 新造倉庫各相去十丈已上 随 処寛狭 量宜置之」注4(十丈は約30m)という勅が延暦十年にでており、その記事に合致する。)
・総柱であることは構造的に堅牢であり、重量物を格納するのに適している。
2.鶴沼C遺跡・西坂才遺跡の概要注1注2
鶴沼C、西坂才両遺跡とも阿賀川の支流である溷川左岸の低位段丘上に立地している。
鶴沼C‐SE01については、南側にほぼ東西に流れる1号流路跡(以下、「流路跡」とする)があり、西流する(図1)。両者の距離は約35mである。
井戸跡の平面はほぼ円形で、直径1.63~1.70m、深さは1.85mである。断面は上半が広がる2段掘りになっているが、おおむねは「U」字形といってもよい形状である。
この掘形の中に方形の木組み井戸側を設置してあり、部材は多くが転用材を使用している。今回の木組みでは、井戸側が主体で、井桁と水溜は検出できなかった。
井桁は、おそらく9世紀代の生活面が大きく削り取られる過程で破壊されたのであろう。その根拠として、本遺構周縁に排水溝等の上部構造をうかがわせるものが全く検出できなかったことや、西坂才遺跡の残りの良好な建物群に比べ、本遺跡建物群の各柱穴の深さがひじょうに浅いことからも、かなりの削平を受けていたことが推測できる。
水溜は検出できなかったが、最下部に大小の礫を4段に敷き詰めて浄化装置としており、下層からの湧水が礫敷きよりもかなり上に溜まるほど潤沢にあったことが推定できる。
井戸側の木組みについては、土坑内側に枘穴(ほぞあな)を穿った4本の枠柱を立て、それぞれを桟木で連結して自立させている。調査では枠柱下端の桟木を検出したのみであるが、枠柱を自立させるために、上部にも桟木による連結があったことが推測できる。枠柱の外側に横方向の側板を積み上げ、それらと掘形壁との間に砂を混ぜた粘土を詰めて側板を固定するという方法をとっている。
上記のように本井戸跡は桟木と側板の間に間詰め板を挟んだり、側板と掘形壁との間に側板を固定するための補強杭を入れるといった細工はあるが、概ね宇野氏の“BⅤb類横板組隅柱留め”に該当する。
本井戸跡に伴う建物群は、遺構西方約40~80mの範囲で、流路跡に沿って9棟(以下、「SB〇〇」とする。)検出しており、報文ではSB02~05(A群)とSB01・06・07(B群)に分けている。これらは切り合いなどからA群よりもB群のほうが新しい。
SB09はSB01・02、12号溝跡との切りあいや出土遺物の新旧関係から、A・B両群よりも古く、12号溝跡よりも新しい。SB08は、いずれとも切りあい関係がなく、かつ出土遺物もないことから、新旧関係は不明である。
図1 鶴沼C遺跡遺構配置図
この中で、A群のSB05は2間×4間で、大型建物跡である。他の建物跡と比べても、柱穴が平面方形で法量的にも大きく、これら中では卓越した建物である。
SB05に対応するB群の建物跡は、法量は小さいものの、平面方形の柱穴を持つSB06が想定でき、A・B両群ともこの2棟を中心とした建物群が展開していたと判断できる。
SB08は2間×2間の総柱建物跡である。建物の特徴や最も近い建物群SB05~07からの距離がほぼ25~30mであるところからみて、倉庫跡の可能性が高い。
報文では、建物跡A・B群の時期を9世紀第2四半期~第4四半期としていることから、SB08がA・Bどちらか一方の群または両群をとおして属していたとしても、両者間の距離は延暦十年の勅の基準に矛盾していないものである。
次に西坂才A区のSE01についてふれる(図2)。調査範囲の制限上、流路跡との関係は不明である。しかし後述するように、鶴沼C遺跡ほかの遺跡でも見られるような流路・建物群との関係性から判断して、本遺構周辺(とくに南西方向)に流路があった可能性は高い。
本井戸跡の検出面の形状はほぼ円形で、その規模は直径1.7~1.85m、深さは約1mを測る。掘形断面形は上半が広がる2段掘りになっているが、概ね椀形である。
掘形の中に木組みの井戸側が作られているが、残存の良否は別にして、構造は鶴沼C‐SE01とほぼ同じで、“BⅤb類横板組隅柱留め”である。内法は一回り大きい。
構造上相違しているのは、水溜にあたる最下部である。鶴沼C‐SE01は礫による浄化装置があったが、本遺構にはなく、この違いが何に起因するのか、現時点では不明である。
井桁が存在しないのは鶴沼C‐SE01と同様であるが、掘形の残存の深さが80㎝ほど浅く、井戸側の横板の段数も2~3段少ない。
このことは、報文に局所的な攪乱のあることが記されており、建物群の検出レベルより1.8~2.0m近く低くなっていることからも、本遺構上部が後世の削平によって大きく損なわれていることがわかり、井桁が検出できなかった理由もその点にあると言えよう。
本遺構に伴う建物跡は、北西方向約16~84mの範囲で7棟(SB01~03・05~08a・b)を検出している。すべての遺構から遺物が出土しているわけではないが、時期はおおむね9世紀前半におさまる。
図2 西坂才遺跡遺構配置図
報文ではSB03とSB08をそれぞれ建て替えということでa・bの二つに分けているが、SB03は後述するように、柱穴の重複は建て替えではなく別の解釈も成り立つことや、仮に建て替えであったとしても、性格的には同じ「倉庫跡」と判断できるので、ここでは1棟として数える。
SB08a・bについては、建て替えではなく、四周に垣根または縁側を持つ建物、例えば祭殿やお堂のようなものではないかと推定している。
以上の理由から、本稿ではSB03・08とも、a・bには分けないで数え、建物跡の数を7棟とした。
この建物群は棟数からみて一時期に存在したか、多くても二時期に分けるのがせいぜいである。もし二時期に分けるとすれば、基準となるのが大型建物跡と倉庫跡である。大型建物は各柱穴の平面形が方形で法量も大きいSB01とSB07で、倉庫跡はSB03である。SB02は新旧どちらに属するのか定かではないが、SB01とは近接しすぎていることから、分けるとすればSB07との組み合わせになると判断した。さらにSB08は、祭殿のような祭祀的建物だとすれば、二時期をとおして存在していた可能性もある。
以上のことを勘案して建物跡を二時期に分けるとすると、倉庫跡SB03とSB08は重複するが、SB01・03・08とSB02・03・07・08の2つに分かれ、そのどちらかにSB05と06が組み合わされることが想定できる。
図3 西坂才遺跡B区遺構配置図
次に、西坂才遺跡B区のSK03について簡単に触れたい。(図3)
本遺構は素掘りの井戸跡で、出土遺物から既述の井戸跡とほぼ同じ時期のものである。
検出平面形は径2.0~2.2mのほぼ円形で、深さは1.2mである。
確認できた建物跡はSB04の1棟のみである。しかし周辺で多くの小穴群を検出しており、これらの中に建物跡の柱穴になるものが含まれている可能性はあるが、抽出することはできなかった。
なお、A区SB03の柱穴の重複について、簡単に触れておく。SB03aのうちの4口の柱穴に対してSB03bの5口の小柱穴が伴う。これらは全体からみると一部であって、規則的な基準に基づいているとは言い難く、かつ、個々の径が小さく、深さもひじょうに浅い。これは建て替えではなく、SB03aの柱を補強するための添え柱的な性格のものである可能性も考えておく必要がある。
以上の調査成果から鶴沼C、西坂才遺跡A・B区3地点を概観すると、川沿いの段丘上に、溝またはそれに類するもので区画された中に大型建物跡や倉庫跡を含む3~5棟の建物跡群が並び、やや離れた場所に井戸跡が配置されるという風景が見えてくる。
3.周辺の状況
次に当該期の井戸跡を伴う周辺遺跡について概観したい。
なお、個別の遺構配置図などは煩雑になるので、ここでは割愛させていただく。文末に掲載した文献をご参照いただきたい。
郡山遺跡注5~10
鶴沼C・西坂才両遺跡の北約1.5㎞には、郡衙推定地である郡山遺跡がある。今までに11次にわたる調査が行われ、建物跡や井戸跡も多数検出している。狭小な面積の調査が多く、建物群の配置や井戸跡との関係が不明なものが多い。
これらの中で、2・5・7・8E~11次調査では比較的まとまった遺構を検出している。
5・7次調査は現在の郡山集落内での調査で、周溝を持つ建物跡を検出している。他の調査でも溝の検出はみられるが、明確に建物跡を囲繞している例は少ない。
2・8E~11次調査は現集落北から西側の水田地内での調査で、多くの建物跡群と井戸跡・溝跡を検出しているが、溝跡は7次調査検出例のように1棟のみを囲繞するものではなく、建物跡群を取り囲むものである。
8E~11次調査の建物群のうち、調査区中央付近に東西に並ぶ6棟の総柱建物は倉庫跡であるが、方位の異なるものもあり、それが時期差を示すのであれば、少なくとも3時期に分けることができる。
2次調査は細長い調査区のため、面的な把握は難しいが、検出遺構を概観するかぎりは8E~11次調査の遺構配置状況と大差ないと判断できる。
いずれにしても鶴沼C・西坂才両遺跡と比べると倉庫跡と周辺で検出している他の建物跡群との距離が近く、それが続日本紀の「随処寛狭 量宜置之」に基づく許容におさまるものなのか、他に起因するものなのか、時期的なことも含めて検討する必要があろう。
さらに9世紀前後の井戸跡について見てみると、2次調査で検出した2基が方形横板組の木枠を持つもので、ほかは時期特定のできない素掘りのものがほとんどである。
井戸跡について、周辺遺跡と比べたとき、これが実相だとするには貧弱すぎる感があり、今後の調査に期待するところ大である。
周辺より島状に高くなっている場所(遺構検出面で標高188m前後)で検出した周溝持ちの建物跡とその周り(同180m前後)の建物跡群は、郡司やその他役人の居宅・役宅と役所建物群といった性格の差も想定できる。
金屋遺跡注6
郡山遺跡2次調査区の北、8E~11次調査区の西にあたり、郡山遺跡の範疇で捉えてもよい遺跡である。
調査区は細長い「コ」字状である。南半分で9~10世紀代の建物跡2棟と、それに伴う素掘り井戸跡1基を検出している。
矢玉遺跡注11
本遺跡は郡山遺跡の南東約2㎞のところにあり、鶴沼C・西坂才遺跡からは1㎞以内に位置している。検出した建物跡は42棟、井戸跡は4基である。
調査区は4区に分かれているが、建物跡はそのうちの中央付近に集中し、井戸跡はその両側に分散する傾向がある。
出土遺物からみて、これら遺構群は8世紀後葉~9世紀前葉の約100年間に収まり、概ね3~4期に分けられる。建物群の配置を見ると、中央部西および北端に2~3棟の倉庫跡のまとまりが3~4群認められ、時期区分に対応していることが見て取れる。
井戸跡は一木刳り抜きの井戸側を持つものを2基検出している。このうちの1基は井戸側の外側に板木を打ち込んで補強としている。
船ケ森西遺跡注12
本遺跡は、鶴沼C・西坂才遺跡の東約2.5㎞、背炙高原裾部の平地に位置している。
建物跡はとくにⅡ区の東半部に集中しており、そのうちでも倉庫跡は北東寄りに集まっている。時期は概ね8世紀後半から9世紀前半で、2~3期に分かれる。
これらに対応する井戸跡は2~3基である。いずれも素掘りで井戸側等の構造物は検出していない。
桜町遺跡(4次) 注13
本遺跡は郡山遺跡の北東約1.5㎞のところにある。調査区は狭長であるため、建物跡については各遺構の全体を把握できるものはないが、5棟分を検出している。
それらが一連のものか時期細分できるかは不明であるが、対応する可能性のある井戸跡を1基検出している。この井戸跡の井戸側は、井籠組の方形横板組である。出土遺物から9世紀前葉~中葉に収まるものである。
東高久遺跡注14
本遺跡は鶴沼C・西坂才遺跡の西約3㎞、阿賀川右岸の沖積地に立地している。
建物跡は調査区北東部に集中し、報文では、そのうち9世紀代のものを3期5小期に分類している。すなわち、9世紀前半がⅠ期、中頃がⅡa~Ⅱc期、それ以降がⅢ期である。
時期によっては調査区の限界のため全容がつかめないものもあるが、概ね5棟前後がひとまとまりで、倉庫跡が他の建物跡から離れた場所に建つ傾向は、他の遺跡と同様である。
これらの建物跡群に対応する井戸跡は4基である。この中には出土遺物がなく、9世紀代と特定できないものもあるが、建物跡群との位置的関係から、ここでは当該期のものとして扱う。このうちの1基は素掘りだが、3基は井戸側が方形立板組みまたは方形横板組みで、その内側や下部に円形木枠(報文のまま)の水溜が据えられている。
屋敷遺跡注15・16
過去、福島県教育委員会による調査(以下、「県調査」という。)と会津若松市教育委員会による調査(以下、「市調査」という。)の2回行われている。
県調査では平安時代(9世紀前半~10世紀代)の建物跡36基、井戸跡19基を検出している。建物跡の大半は調査区中央部で、南北幅約40mの範囲に展開し、とくにその西端に集中する傾向が認められる。井戸跡も建物跡集中部の内外近辺にまとまっており、井戸側など構造物の残っているものが6基ある。
以下、9世紀から10世紀にかけてのものを3期に分けて概観する。
9世紀前半の建物跡は展開範囲の南西端に倉庫跡と大型建物跡が各1棟あり、対応する井戸跡はその西側から検出した、一木刳り抜きの水溜を持つものを含め3基が想定できる。
9世紀中葉から後葉にかけての建物跡は、集中が著しい西端の一群が該当する。倉庫跡が4棟、大型建物跡が2棟、中~小型建物跡が6棟である。特に切り合いの激しい部分から判断すると、当該期は2~3小期に分かれる可能性がある。
これらに伴う井戸跡は、建物跡群の内外で7~8基が想定できるが、特定は難しい。これらの中には立板組みの井戸側の中に曲物の水溜を持つものもあるが、ほとんどは素掘りである。
10世紀になると4~5棟を一群とする建物跡が調査区中央西端、北西端、東端の3か所に分散して展開する。倉庫跡・大型建物跡・中~小型建物跡という組み合わせは、前期から崩れていない。
井戸は井戸側を井籠組とよばれる、仕口を枘組みにして保持しながら積み上げる方形横板組のものが現れる。全部で3基検出しているが、それぞれ3か所の建物跡群に近接して一つずつあり、セット関係が明白な例である。本遺跡では、これらのほか、建物跡の三方を溝で囲むものを2棟検出しており、郡山遺跡と同様の様相を持つ。
報文では、時期について1棟は溝からの出土遺物によって9世紀後半、他の1棟は不明としているが、検出地点から判断して、2棟が近接した時期に存在していた可能性は十分にある。
市調査は、県調査の西側で行い、9世紀代の建物跡24棟、井戸跡6基を検出している。
建物跡は南側調査区北半分の南北幅40~50mの範囲に集中するが、これは県調査の集中範囲の西側につながり、少なくともここまで建物跡群が展開していることを確認できる。
このうち北東隅で検出した10棟は9世紀後半のものであるが、建物規模・柱穴とも小さく、倉庫跡と判断できる建物跡も確認できない。このことから、他の建物跡群と同レベルで扱うのは慎重にすべきであろう。
ただし、これに対応する可能性のある井戸跡は、方形横板組の井戸側を持っており、本調査で検出したものの中でも立派なものである。
南側調査区西寄りからは13棟の建物跡を検出している。この中で明確に倉庫跡といえるのは1棟、大型建物跡は可能性のあるものも含めて2棟である。ここでは、切り合いから判断すると、概ね3期に分けることができる。これに対応する井戸跡は4基想定できるが、そのうちの2基は方形横板組の井戸側を持つ。
北側調査区では8棟の建物跡を検出し、切り合いなどから最低2時期に分けることができ、これらに対応する井戸跡は西側から検出した1基が想定できる。
県・市調査を通してみると、一帯に平安時代の建物群がかなり多く存在し、それらに伴う井戸跡も認めることができる。その中で、井戸跡を見ると、9世紀前半には方形横板組井戸側と一木刳り抜き水溜が併存し、中葉頃には方形横板組井戸側が主体をなし、水溜めが認められなくなる。ただしその差は、残存状況の悪さに起因する可能性もある。
10世紀に入ると方形横板組という型式は変わらないが、井籠組とよばれる、より高度な組み方をもつものが出現する。
9世紀代で方形横板組構造の鶴沼C・西坂才遺跡例では、ある程度長さを揃えたりする必要はあるものの、転用材をほぼそのまま利用した構築が可能であるが、井籠組は仕口を揃えなければならず、専用材が必要となる。
4.まとめ
今回概観した郡山遺跡周辺の状況から、9世紀代までは郡山遺跡を中心に、鶴沼C遺跡や西坂才遺跡等で想定できる規模の小さな役所が衛星的に配置されていたことが見えてくる。衛星的役所が具体的にどのような役割を担っていたのかは不明であるが、おそらく郡司が常在していたであろう郡山遺跡よりも一段低い行政単位として存在していたことは間違いない。
調査範囲の広狭、後世の削平度合いもあるので一概に断定はできないが、郡山遺跡を除くと、矢玉遺跡・東高久遺跡・屋敷遺跡などは時期や井戸跡の構造的な特徴を異にしながらも、建物跡の密度が濃く、一般の建物跡と倉庫跡という構成もしっかりしていることから、会津市域北部の中心的役割を担っていたことは十分に推定できる。とくに矢玉遺跡・東高久遺跡は郡山遺跡の盛期と時期的に重なることから、鶴沼C・西坂才遺跡と同格の位置を有するのか否かということも念頭に置いて、今後その関係をもう少し掘り下げてみたいと考えている。
さらに屋敷遺跡は9世紀後半には郡山遺跡と同様の周溝持ち建物跡が現れ、10世紀代になると、それまでの当遺跡を含めた周辺遺跡と比較して卓越した構造を持つ井戸を有するようになる。
郡衙(推定地)として会津盆地での有機的構造の中心であった郡山遺跡が、律令制度が崩壊する過程(または崩壊後)で、9世紀末にその地位や役割を終え、10世紀に盛期を迎える屋敷遺跡に機能が移ったと考えることもできる。
(注)
注1・2 福島県教育委員会 2014 「会津縦貫北道路遺跡発掘調査報告15
(公財)福島県文化振興財団 鶴沼C遺跡 西坂才遺跡(1次)」
『福島県文化財調査報告書第496集』
注3 宇野隆夫 1982 「井戸考」『史林 第65巻第5号』史学研究会
注4 『続日本紀 延暦十年二月癸卯之条』中の記事
注5 会津若松市教育委員会 2004 「郡山遺跡Ⅰ-町道郡山第三小学校線歩道 整備工事に伴う発掘
調査」
『河東町文化財調査報告書第15集』
注6 会津若松市教育委員会 2006 「金屋遺跡 郡山遺跡Ⅱ-河東西部地区県営経営体育成基盤整
備事業に伴う発掘調査-」
『会津若松市文化財調査報告書第107号』
注7 会津若松市教育委員会 2088 「郡山遺跡Ⅳ(第5次・第6次調査)」
『会津若松市文化財調査報告書第115号』
注8 会津若松市教育委員会 2009 「郡山遺跡Ⅴ(第7次調査)」
『会津若松市文化財調査報告書第118号』
注9 会津若松市教育委員会 2010 「郡山遺跡Ⅵ(第8次調査)」
『会津若松市文化財調査報告書第124号』
注10 会津若松市教育委員会 2013 「郡山遺跡Ⅷ(第10・11次調査)」
『会津若松市文化財調査報告書第136号』
注11 会津若松市教育委員会 1999 「若松北部地区県営圃場整備発掘調査報告書 矢玉遺跡」
『会津若松市文化財調査報告書第61号』
注12 福島県教育委員会 1990 「東北横断自動車道遺跡調査報告9 船ケ森西遺跡 上吉田遺跡」
(財)福島県文化センター 『福島県文化財調査報告書第241集』
注13 福島県教育委員会 2012 「会津縦貫北道路遺跡発掘調査報告12 桜町遺跡(4次)」
(財)福島県文化振興財団 『福島県文化財調査報告書第485集』
注14 会津若松市教育委員会 2005 「東高久遺跡-奈良・平安時代「多具郷」の有力な推定地-」
『会津若松市文化財調査報告書第104号』
注15 福島県教育委員会 1990 「東北横断自動車道遺跡調査報告12 屋敷遺跡」
(財)福島県文化センター
注16 会津若松市教育委員会 2004 「屋敷遺跡-弥生時代中期から古墳時代前期一町四方の平安時代
の大集落-」
『会津若松市文化財調査報告書第94号』