調査研究コラム

#025 向山遺跡墓壙雑考  池田 敏宏

私は、平成25年度から、こちらの財団に出向しています。業務としては平成25・26年度と2年連続で一般国道115号相馬福島道路建設工事に先立つ埋蔵文化財発掘調査に携わっています。今回、調査研究コラムでは、私が担当した向山遺跡の墓壙(ぼこう)について書かせて頂きたく思います。

はじめに、一般国道115号相馬福島道路と向山遺跡のあらましについて説明します。一般国道115号相馬福島道路は、東日本大震災復興支援のための自動車専用道路で、常磐自動車道相馬ICから東北自動車道(仮)福島北JCT間の約45kmを結びます。当財団が福島県教育委員会からの委託をうけて、工事で失われる文化財を記録として残すため発掘調査をおこなっています(註1)。

 次に向山遺跡の概要を記します。向山遺跡は、相馬市の西端・玉野地区、宇田川支流南岸の丘陵裾にある遺跡で、標高は404~503mほどです。平成25年度の第一次調査(2,400㎡,2013年12月初め~2014年1月中旬に調査実施)では、縄文時代早期~前期に位置付けられる落(おと)し穴(あな)群を発掘調査しました。
余談ですが私の勤務元(公益財団とちぎ未来づくり財団)は、関東平野北端部(標高約19~120m)での発掘調査が多いです。このため、冬場は霜柱を除去すれば作業可能となります(もっとも日中暖かくなってくると、霜が融け、足場がぬかるむので、これはこれで大変ですが…)。時折、積雪もありますが、積雪量は多くなく比較的短期間で融雪します。気温も0度を下回ることは滅多にありません。
しかし、こちらでは、そうはいきません。私が担当する遺跡群は標高約200~500mの阿武隈高地に散在しているためです。福島市街地に紅葉前線が下りる頃、現場では風花が舞います。さらに、厳寒期は最高気温が0度、最低気温は氷点下のことが往々あります(写真1)。発掘現場が凍(い)て結(つ)きました(写真2・3)! 勤務元ではめったに経験できない貴重な体験です(^_^;) 

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写真1 最高気温0℃

(国道115号玉野にて)

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写真2 厳寒期の作業風景(西から)

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写真3 凍りついた落し穴を断ち割り
調査している状況(南から)

2014年2~3月は、これ以前に実施した別遺跡の整理作業(註2)をおこないました。そして、改めて第二次調査(4,850㎡,2014年4月下旬~2014年10月上旬に調査実施)が行われました。第二次調査では縄文時代の落し穴跡ばかりでなく、平安時代前期頃の竪穴住居跡4軒や、江戸時代頃と考えられる製鉄遺構群を発見できました(写真4・5)。前年度調査区の隣接地なのに、明らかに前年度とは遺構の様子が異なります。気が抜けません。

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写真4 発見された古代の
  竪穴住居跡の一つ(南から)

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写真5 近世製鉄遺構群調査の一コマ

(北西から)

そんな矢先、第11号土坑(どこう)(SK11)にサブトレンチ(試し掘り溝)を入れたところ、土坑底面から口(こう)縁部(えんぶ)を下側にした状態(以下、逆(ぎゃく)位(い))で小型壺が出土しました。私の体験上、逆位で遺物が出土するケースは、お呪(まじな)い関係が多いです(註3)。用心しながら、移植(いしょく)ゴテ(手持ちシャベル)で周囲の土坑埋土(まいど)を徐々に取り除いていきました。すると、カキンという鈍い音とともに青緑色をした丸い金属が見つかりました。手ボウキを使い、丁寧に周囲の埋土を払った結果、丸い金属は、銅製和(わ)鏡(きょう)だと分かりました(写真6)

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写真6 小型壺と和鏡を発見!

(赤白ピンの先端が和鏡。南から)

さらに、和鏡のすぐそばから棒状(ぼうじょう)鉄(てつ)製品(せいひん)、銅製煙管(きせる)(喫煙道具)1組、古銭(こせん)(寛永通(かんえいつう)寶(ほう))3枚、大堀(おおほり)相馬(そうま)焼(やき)碗(註4)などが出土しました(写真7~9)

 当初、和鏡と銭貨は土坑内に安置した地鎮(ちしず)め (修験(しゅげん)道(どう)系の呪(まじな)い)ではないかと考えました。また棒状鉄製品は手(て)錫(しゃく)杖(じょう)(修験道で用いる仏具)のようにも見えました。それゆえ、これらは製鉄に関わる地鎮め痕跡だと考えました。しかし、埋土の取り除きが終わったところ、棒状鉄製品はL字状に曲がっており2本1組であること、棒状鉄製品先端は円形であることが明らかになりました。これは手錫杖ではなく、火箸(ひばし)(火鉢や火箱内の炭を扱う道具)です。残念ながら、地鎮めに火箸は用いません。地鎮めという考えは撤回が必要なうえ、別の解釈で、これらを考えなければならなくなりました。

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写真7 第11号土坑遺物出土状況

(南から)

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写真8 出土した和鏡

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写真9 初期の大堀相馬焼碗

ちょうどその頃、第11号土坑に併行して第10号土坑(SK10)埋土も掘り下げていました。10号土坑からは古銭(寛永通寶)6枚、有機物(ゆうきぶつ)塊(かい)、鉄製品数点、人骨片が出土しました(写真10)。古銭が土坑から六枚出土するケースは、たいがい六道(ろくどう)銭(せん)(三途(さんず)の川(かわ)の渡(わた)し賃(ちん)) (鈴木1999)です。また、有機物塊は、ビーズ状円形物群で中心には紐を通すための小円孔が開いています。木製の 数珠(じゅず)の可能性が考えられます。さらに、鉄製釘に錆化した木片痕が付着しています。木製棺に釘を打ち付けた痕跡のようです。つまるところ第10号土坑は墓壙(ぼこう)で間違いありません(人骨片が出土しているのが決定打です)。なお、本土坑(墓壙)から出土したU字状鉄製品は和鋏(わばさみ)(裁縫(さいほう)などで用いる鋏)と考えられます。であるならば、第10号土坑(墓壙)の埋葬者は女性の可能性が考えられます。

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写真10 第10号土坑遺物出土状況

(東から)

「ということは、第11号土坑も墓壙かもしれない⁉」。改めて第11号土坑を見直してみました。第11号土坑が墓壙であるならば、土坑出土遺物は副葬品(ふくそうひん)ということになります。なかでも銅製和鏡や操業開始期(18世紀前半頃)の大堀相馬焼碗=当時の稀少品が出土していることから有力階層の関与が想定できます。しかも、和鏡が出土していることから本土坑も女性が埋葬されていた可能性が考えられそうです(註5)。煙管や火箸が副葬されていることから、刻(きざ)み煙草(たばこ)が好きな人物だったのかもしれませんね。ちなみに規模・堆積土とも10号・11号土坑(SK10・11)は近似しています。

 ならば、次の点から、これらの墓壙は本遺跡鉄生産を経営・指導した豪農層(名主(なぬし)・肝煎(きもいり)クラス)の墳墓と考えられそうです(第1図) (註6)。
(ⅰ) 製鉄遺構群が形成されている尾根斜面に形成されている
(ⅱ)いずれも近辺に近世遺構が存在せず単独で立地している
(ⅲ)調査区グリッドE列(10号土坑はE15区、11号土坑はE16区)にのみ墓壙を形成し墓域(ぼいき)となっている
(ⅳ) 10号・11号土坑から製鉄遺構群が眺望できる

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第1図

向山遺跡遺構配置図(S=1/800)

加えて、本遺跡が所在する玉野地域は、相馬郡・伊達郡境界であることから、戦国時代はもちろん、江戸時代になっても郡境(ぐんさかい)紛争が繰り返し起きている地です(幕府仲介により境界地は入会地(いりあいち)として度々裁定(さいてい)が下されています) (註7)。 製鉄遺跡経営者層の墳墓を山中(さんちゅう)に営むことで民間信仰的意味合い (祖(そ)霊(れい)祭祀(さいし)と一体化した山(やま)の神(かみ)=製鉄神信仰が重層構造化したもの)(桜井編1980)をもたせ、境界地占有(せんゆう)(製鉄遺跡の形成)を自ら正当化させようとしたのかもしれません。

 私の出向期間は残り僅かではありますが、以上の諸点を引き続き検討し、その成果を発掘調査報告書〔福島県教育委員会・(公財)福島県文化振興財団『一般国道115号相馬福島道路遺跡発掘調査報告3』2016年刊行予定〕中に残していければ幸いです。

【註】
註1 平成25年度発掘調査の成果は、福島県教育委員会・(公財)福島県文化振興財団2015A・Bとして近々、刊行されます。

註2 宝(ほう)直館(じきたて)跡、熊屋敷B遺跡、姥ヶ(うばが)岩(いわ)遺跡、川向遺跡の整理作業をさします〔成果は福島県教育委員会・(公財)福島県文化振興財団2015Bに収録〕。

註3 2例ほど示します。私が以前、発掘調査をした栃木県小山市・祇園(ぎおん)城跡(じょうあと)関連(かんれん)遺跡では、方形(ほうけい)竪穴(たてあな)遺構(いこう) の出入口階段部分に種子仏(しゅじぶつ)(阿弥陀如来を示す梵(ぼん)字(じ)キリークが刻まれた面)を下にした状態(逆位)で武蔵型板碑(いたび)が出土したことがあります。方形竪穴遺構の廃絶に伴う「送り」の儀礼(遺構鎮(しず)め)に板碑が転用されたものと考えました(池田編2005)。また、栃木県真岡市・下陰(しもかげ)遺跡では、土坑埋土中から古銭1枚を伴って土師質土器皿が口縁部を下にした状態(逆位)で出土したこともあります。この土器内面には密教(みっきょう)法(ほう)具(ぐ)の輪(りん)宝(ぽう)が墨描きされていた(輪(りん)宝(ぽう)墨書(ぼくしょ)土器(どき))ので、これらが地(ち)鎮(しず)めに用いられた呪(じゅ)具(ぐ)であることが明らかになりました(池田編2008,池田2009)。

註4 大堀相馬焼は、福島県浪江町大堀地区を中心に、江戸時代から生産されてきた陶器(とうき)です。瀬戸窯(現.愛知県瀬戸市)で陶器づくりを学んだ左(さ)馬(ま)が、元禄3年(1690)に主人である半谷(はんや)休閑(きゅうかん)にその技術を伝えたのが始まりと言われています。大堀相馬焼はその後、相馬藩の注目するところとなり、藩の保護下で成長を遂げていきます。18世紀には碗を中心とした生産を行い、太平洋岸の東北地方に大堀相馬焼製品が出回りました。さらに19世紀には煎茶器(せんちゃき)、絵皿、土瓶(どびん)、徳利(とっくり)、行平(ゆきひら)鍋(なべ)、植木鉢など新商品開発を行い、江戸市場への参入に成功しました。しかし、明治時代になると藩の庇護は失われ、存亡の危機にたちます。しかし、様々な工夫をこらした創意的製品(青(あお)ひび、二重(ふたえ)焼(やき)、走(はし)り駒(こま)絵(え)等)を生み出し、現在に受け継がれています(野馬追いの里原町市立博物館1999、福島県文化財センター白河館2014)。大堀相馬焼は、相馬野馬追いと並ぶ相馬地域の歴史遺産と言えます。

註5 笹生 衛氏は、土坑墓出土の鏡は遺体を保護する意味合いがあった点、鏡が女性の墓に埋葬される比率が高い点を指摘したうえ、鏡が女性墓の辟(へき)邪(じゃ)呪具として機能していた可能性を推察しています(笹生2013)。

註6 新地町・武井(ぶい)地区古代製鉄遺跡群では、遺跡のほぼ中央で、8世紀後半~9世紀前半頃の荼毘所(だびしょ)、墳墓・祭壇が発見されています。南相馬市(旧.原町)・金沢(かねさわ)地区古代製鉄遺跡群でも8世紀中葉~9世紀前半頃の墳墓・墳墓堂跡が発見されています。製鉄遺跡群の真っただ中に位置する点や製鉄遺跡の管理施設が確認されている点から、製鉄遺跡を管理する人物(行方郡の郡司クラス)の墳墓と考えられています(飯村2005)。本遺跡の近世墓壙を考えていく上で貴重な参考データです(古代と近世、時代は異なっても、人々の基層心性には共通性がみられる好事例です)。ちなみに、江戸時代(幕藩体制の時代)、豪農層の多くは名主(なぬし)・肝煎(きもいり)や、組頭(くみがしら)など村役人としても機能していました。であるならば、その背後には、相馬藩の関与も推定できそうです(玉野地区は入会地ばかりでなく、相馬藩御用地(ごようち)も存在していました)。文献資料に残らない、歴史事象が当地域で展開していたのかもしれません。興味はつきません。

註7 霊山山塊東側の山麓とそれに続く丘陵地(霊山・玉野地域)は、伊達郡が伊達氏領であった16世紀頃から、同郡石田郷の入会地として利用されてきました(石田に所在する菅野家の古文書より霊山・玉野境開拓の拠点として重要な位置を占めていたと考えられます)。しかし、この時点では、伊達氏・相馬氏ともに厳密な境界設定をしなければならないような状況ではなかったようです。加えて幕藩体制が成立した17世紀初めにおいても、当該地は米沢藩伊達郡領、相馬藩宇多郡領、仙台藩伊具郡領に取り囲まれた郡境・藩境未定の奥山(おくやま)でした。
しかし、寛永8(1631)年には、仙台藩・相馬藩間で玉野をめぐる最初の境界紛争が生じます(幕府仲介により境界地は入会地として処理)のを契機に、「正保国絵図」作成〔正保元(1650)年〕に伴って米沢藩・相馬藩間で境界紛争に発展しました(当時、伊達郡は米沢藩領)。翌正保2(1654)年、幕府は、東玉野を相馬藩領、西玉野を米沢藩領農民・相馬藩領農民が共有する公儀認定入会地として裁定を下しました。だが、これで西玉野の帰属が確定することには至らなかったため、時代によって争点を変化させながら境界争論は幾度か、蒸し返されました(水利権争い等)。結果、その解決は明治初期の地租改正裁判にまで持ち越されることとなり、現在の石田・玉野境界設定に至っています〔福島県教育委員会・(公財)福島県文化振興財団2015B〕。        

【引用参考文献】
飯村 均 2005『シリーズ「遺跡を学ぶ」021 律令国家の対蝦夷政策-相馬の製鉄遺跡群-』新泉社
池田敏宏編 2005『祇園城跡関連遺跡』栃木県教育委員会・(財)とちぎ生涯学習文化財団
池田敏宏編 2008『下陰遺跡Ⅰ』栃木県教育委員会・(財)とちぎ生涯学習文化財団
池田敏宏 2009「輪宝墨書土器に関する基礎的考察-墨書輪宝文様の検討を中心にして-」『研究紀要』第
17号、(財)とちぎ生涯学習文化財団埋蔵文化財センター
桜井徳太郎編 1980『民間信仰辞典』東京堂出版
笹生 衛 2013「鏡を伴う中世土坑墓とその背景」『月刊考古学ジャーナル』№507 特集 和鏡の考古学、ニューサイエンス社
鈴木公男 1999『出土銭貨の研究』東京大学出版会
野馬追いの里原町市立博物館(現.南相馬市博物館) 1999『企画展図録第11集 相馬のやきもの-収蔵資料を中心として-』
福島県教育委員会・(公財)福島県文化振興財団 2015A『一般国道115号相馬福島道路遺跡発掘調査報告1』
福島県教育委員会・(公財)福島県文化振興財団 2015B『一般国道115号相馬福島道路遺跡発掘調査報告2』
福島県文化財センター白河館(まほろん) 2014『平成26年度ふくしま復興展 発掘された大堀相馬焼-まほろん収蔵資料を中心として-』