#021 南相馬市天化沢A遺跡出土の石包丁について 天本 昌希
石包丁は、石を薄い板状に加工し、多くのものは2ヶ所の穴を開け、片側を研いで刃を付けた弥生時代に特徴的な石器です。
弥生時代に稲作の開始とともに、稲の穂首を刈るための道具として利用されたと考えられ、中学生の歴史の教科書にも必ずといってよいほど記されています。
とはいえ、この石包丁は日本全国で出土するものではなく、その分布には西日本に多く、東日本にはほとんどないという偏りがあります。
その中において、東北福島の浜通りから仙台平野にかけての地域には、一気に石包丁の出土点数が多くなります。
図1 東北地方の石包丁出土遺跡
(『仙台市史 通史編1原始』P353
より引用加筆)
図2 遺跡付近の川原で採れる粘板岩
この流域の遺跡に住んでいた弥生人もそう遠出することなく容易に入手できたことでしょう。
次に、石包丁の製作について考えてみると、天化沢A遺跡には石包丁の大きさ程度に加工してあるものの、打ち欠いたままで磨かれていないもの(1)や、磨かれて形は整えられているものの、穴が開けられていないもの(2)があり、これらは石包丁の未完成品と考えられます。
完成品(3)からの製作工程を類推すれば、(1)→(2)→(3)という工程が考えられます。
ここで石包丁の特徴でもある二対の穴の開け方をみてみましょう。
この穴は紐を通すためのものと考えられており、多くのものは器体の表裏両面から回転運動によって開けられ、穴の内径に対して外径が大きく広がります。
これは穴を開ける際、角度が鋭く細長い、錐のような道具を用いたのではなく、角礫の角や剥片の角のような角度が鈍く短い道具を用いて開けているものと思われます。
一方、他の遺跡では、穴を開ける場所をコツコツ少しずつ叩いて小さなくぼみを作り、最終的に穴を貫通させているものも見受けられます。
図3 叩いた痕跡を残す石包丁
上ノ原遺跡(浪江町)
実測図赤塗の場所が叩いた痕
・(上段写真『先人の足跡 竹島國基が
歩いた遺跡』P38より引用)
・(下段実測図『福島県相双地域の弥生
時代遺跡』P55より引用加筆)
これらの石包丁は穴だけでなく、本体部の研磨においても同様に、叩いた痕をのこしています。
これは完成品に要求される薄さまで研き減らすよりも、叩いて潰していった方が早いからと考えられます。
事実、叩いた痕跡を残す石包丁と研磨によるものとで厚さを比べると、前者の方が厚くなる傾向があります。
さらに叩きによるものの素材は、薄く剥ぎとれる粘板岩以外の石材を用いていることが多いことも指摘できます。
では話を戻しまして、石包丁の素材となるように加工された(1)はどこでつくられたのでしょうか。
川原から材料となる原石を採ってきて、遺跡で製作したというのであれば、その時の剥片がのこされるはずですが、それらは出土していません。
(1)は、原石からすでに素材として加工された状態で天化沢A遺跡に持ち込まれており、遺跡の外で川原石から(1)を作り出す(0)という行為がおこなわれていたことを想定することができます。
図4 天化沢A遺跡の石包丁の製作工程
おそらく川原で石材採取する際に、石包丁の素材となるまでの加工を行い遺跡に持ち込んでいるのでしょう。
石包丁の研究は、出土量の多い西日本で盛んであり、そこでは専業集団により集中的に生産され、交易商品とされてきたとする説が有力です。
一方で福島の石包丁製作をみてみると、天化沢A遺跡だけでなく、近隣の多くの遺跡でも完成品と未成品が出土しており、完成品のみが遠くまで流通するという様子は看取できません。
福島においては、専業集団による交易商品としての集中製作ではなく、自家消費ためのものであろうと考えられます。
一方、なぜ福島の浜通りから仙台平野にかけては石包丁がこんなにも多く出土するのかという問題があります。
石包丁が稲作を行っていたことの傍証であるならば、石包丁のほとんど出土しない関東などでは、稲作は行われていなかったことになりますが、他の多くの出土遺物から、そのように想定するのは困難です。
稲作の伝播とともに各種の道具も伝わったと考えられますが、東日本では石包丁は必須のものではなく、木や貝殻など何か他の素材を用いたものに代替されたのではないでしょうか。
これに対し、石包丁に適した粘板岩が豊富に採れる福島宮城の沿岸部には、その製作技術が残ったものと思われます。
【引用参考文献】
福島県立博物館(編) 1993 『東北からの弥生文化』
仙台市史編さん委員会(編) 1999 『仙台市史 通史編1原始』 仙台市
福島県立博物館(編) 2003 『福島県相双地域の弥生時代遺跡』
南相馬市博物館(編) 2008 『先人の足跡 竹島國基が歩いた遺跡』
下條信行(編) 2010 『季刊考古学 石器生産と流通に見る弥生文化』111号 雄山閣