調査研究コラム

#020 糸を紡ぎ、機は織られていたのか?-古代の地方紡織の生産体制を考える-廣川紀子

◆はじめに

 前回の調査研究コラムでは、本宮市高木遺跡出土の石製紡錘車について、かつて執筆したものを転載させていただいた。

 高木遺跡は、当財団に勤務して早々に、諸先輩方とともに調査を担当させていただいた思い出深い遺跡である。

 多量の出土遺物に囲まれ、阿武隈川の自然堤防上に幾重にも重複する遺構に頭を悩ませながら過ごした日々が久しぶりに思い出された。

 それとともに、すっかり忘れていた紡錘車の原稿を読み返すこととなり、安易に使用してしまった表題の「糸を紡ぎ、機を織る」の意味について、今回のコラムで少し整理することができればと考えている。

1 自然堤防上に築かれた集落

 高木遺跡は福島県本宮市に所在し、福島県中通り地方を南から北に流れる阿武隈川の自然堤防上に営まれた集落遺跡である。

 この自然堤防上には、高木遺跡に隣接して南から百目木遺跡、北ノ脇遺跡、そして山王川原遺跡の4遺跡が所在し、約1.5kmにわたって一連の集落遺跡〔注1〕が広がっている。

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写真1 集落遺跡の遠景

築堤工事の計画により、本宮市(旧本宮町)教育委員会とともに、当財団では平成11年度から山王川原遺跡8,500㎡、高木・北ノ脇遺約21,000㎡の発掘調査を実施することとなった。

 調査の結果、古墳時代から平安時代にかけての竪穴住居跡251軒(高木遺跡172軒、北ノ脇遺跡42軒、山王川原遺跡37軒)を検出し、集落が最も発展する時期には自然堤防を大溝が分断し、大溝と自然堤防の後背湿地側からは祭祀的な様相を示す多種多様な遺物が出土していたことが確認できた。

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写真2 高木遺跡から検出されたカマド

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写真3 高木遺跡の大溝跡

集落の発展する時期は土器型式の栗囲式期にあたる、およそ7世紀代と考えられ、土師器・須恵器をはじめとする多量の出土遺物とともに紡錘車の紡輪部分〔注2〕が出土している。

2 出土した紡錘車

 本宮地区右岸築堤遺跡群から出土した石製紡錘車については、本宮市教育委員会により集成〔注3〕が成されている。

 それによれば福島県内で報告されている石製紡錘車は、会津若松市大塚山古墳の副葬品のような非実用的なものまで含めると47遺跡112点にのぼり、そのうち本宮地区右岸築堤遺跡群からは45点が報告されている。

 45点の内訳は、山王川原遺跡で8点、北ノ脇遺跡で7点、百目木遺跡で30点となるが、県内の他の遺跡では同一の遺跡内から複数の出土点数がある事例がほとんどなく、遺跡群内からの出土点数が際立っている。

 また、遺跡群からは未成品が多数出土しており、特に百目木遺跡30号住居跡からは製作途中の石製紡錘車17点が一括して出土している。

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写真4 高木遺跡から出土した紡錘車

報告書の刊行前であったため、集成には当財団調査分の高木・北ノ脇遺跡については含まれていないが、両遺跡の出土資料も同様の傾向を示している。

 両遺跡の報告分を加えると、高木遺跡からは24点、北ノ脇遺跡からは10点が出土しており、遺跡群としての総数は71点となる。

 当財団調査分について、山王川原遺跡、北ノ脇遺跡、高木遺跡の3遺跡から出土した紡錘車についてまとめると、紡錘車は6点の土製品を含んだ37点が出土しており、破損品も少なくなく、そのうち加工途中とみられる石製紡錘車の未成品は13点である。

 また、高木遺跡40・43号住居跡からは3点、49号住居跡からは5点というように同一住居跡から複数個体の出土が認められる。

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図1

高木遺跡49号住居跡
から出土した紡錘車

表1は3遺跡から出土した紡錘車のうち、未成品を除いた紡輪としての形状を復元できたものの一覧である。

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表1 山王川原・北ノ脇・高木遺跡から出土した完形品の紡錘車(当財団調査分)

形状は、どれも断面が台形状となる円錐形の先端側を切り取ったような形となっており、最大径が4.0~4.5cm、厚さが1.5~2.5cm内外にほぼ収まる大きさとなっている。

 重さはばらつきがあり、高木遺跡49号住居跡から一括出土した遺存状態のよい3点が80~90gであったのに対し、他の地点から出土したものは、その重さの3分の1から3分の2程度までと幅があり、土製品の1点では130gのものまでみられる。〔注4〕

 3遺跡からの出土状況からは栗囲式期の遺物と共伴しており、紡錘車が製作ないし使用された時期は集落の発展する時期と重なるものとみられる。

3 一般集落で出土する紡錘車の役割について

 遺跡群の所在する本宮市周辺地域は、『延喜式』に記載される延喜6年(906)に安積郡から安達郡が分立した際に設けられた「安達郷」〔注5〕の候補にも挙げられている。

 遺跡群内に営まれた集落は、およそ6世紀中ごろから出現し7世紀代を通して継続的に発展しており、安達郡の建郡へ向かう一役を担うこととなったものかもしれない。

 集落の造営時期は律令国家形成時期とも重なり、集落の出現と発展には大規模な移住計画が想定され、おそらく自然堤防の後背湿地には水田の整備が進められ、生産性を高めたものと推察される。

 そのような集落の組織的な運営は、集落を巡る大溝の設営やそこでの祭祀行為にもうかがえる。

 しかしながら、2条の大溝で区画された内部には若干の金属製品を有する大型の住居跡が認められるものの、検出された遺構からは集落を運営する主宰者的な存在は見いだせない。

 それでは、そのような集落内から一定量出土する紡錘車の役割とは何であったのか、一般集落における地方の紡織体制の関わりについて私見を述べてみたい。

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図2 山高木・北ノ脇遺跡全体図(財団調査分)【栗囲式期中葉~後葉】

律令国家形成期における地方の紡織体制については、貢納や交易から納税を目的とした郡衙関連施設すなわち官営工房での平織の絹や麻布の生産体制が整備されたものと考えられる。

 特に麻布の生産については、律令制化において調布や庸布として徴税の対象ともなっており、生産性や効率化を図るために織機等の道具やその担い手を確保し、継続的に相応の技術力を維持する必要があったであろう。そのためには、官営工房によって生産を集約することは順当なことといえよう。

 そして、そのような生産体制を維持するためには、徴税の対象となる郡衙周辺地域の一般集落によってある段階までの工程が行われていたのではないだろうか。具体的には紡織のうちの製糸に関わる作業として、植物の栽培ないし採取、繊維の取り出し、繊維をつないで撚りをかけるというような作業である。

 当然ながらこの撚り糸の作業に使用された道具が紡錘車であり、本宮地区右岸築堤遺跡群で出土した紡錘車についてもそのような可能性を考えてみたい。

 律令制化における紡織体制の分業化についてはいくつかの報告事例があり、遠江国敷智郡衙の関連施設に比定される静岡県伊場遺跡群と周辺の集落遺跡では紡織に関わる出土遺物の相違により拠点施設での請負生産制が指摘されている。また、一遺跡から多量の紡錘車が出土した群馬県矢田遺跡では製糸業の専業化が考えられている。

 東国では鉄製紡錘車の普及が官衙周辺の集落遺跡から開始されるということも分業化、専業化の一現象といえるのかもしれない。

 「糸を紡ぎ、機は織られていたのか?」本宮地区右岸築堤遺跡群で出土した紡錘車について、その用途や目的について論ずるには資料不足であるが、類例や他地域の事例と比較検討しながら、律令国家形成期における地方の紡織体制の中で再検討できればと考えている。

◆おわりに

 高木・北ノ脇遺跡の調査から数年後、まほろん(福島県文化財センター・白河館)へ異動となり、そこでは文化財の啓発普及を目的とした様々な体験学習事業を展開しており、私自身もいろいろと経験を積むことができた。

 その中でも、在籍した6年間を通して担当することとなった実技講座『カラムシから布をつくろう』を契機として、古来の布づくりについて強く関心を抱くようになった。

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写真5 カラムシ畑

(まほろん実技講座「カラムシから布をつくろう」)
~『まほろん通信14』より転載~

その講座ではカラムシから繊維を取り出し、アンギン編みで縄文時代の布づくりを体験するという内容のものであったが、木綿製品の普及以前におけるカラムシをはじめとする麻布の需要と、布づくりの工程における糸づくりの比重について、実感をもって捉えることができたことが何よりの習得であった。

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写真6 苧ひきの様子

(まほろん実技講座「カラムシから布をつくろう」)
~『まほろん通信14』より転載~

本宮地区右岸築堤遺跡群の紡錘車が当時の布づくりに使用されていたものとすれば、それは麻布であり、カラムシを原料としたものと考えられる。

 また機会があれば、カラムシから繊維を採取し、紡錘車で撚りをかけ糸をつくり、機を用意して古代のふくしまの人々の布づくりを再現したいものである。

〔注1〕阿武隈右岸築堤に関わる遺跡の調査は、「一級河川阿武隈川上流改修本宮右岸築堤事業」として昭和61年度から進められていたものであるが、平成10年の甚大な浸水被害により『阿武隈川平成の大改修』が計画され、平成11年度に福島県と本宮町が特別の調査体制を敷いて行われている。築堤工事は本宮町内の右岸全長2.8kmに及び、その自然堤防上には原遺跡・百目木遺跡・高木遺跡・北ノ脇遺跡・山王川原遺跡の5遺跡が所在し、ほぼ全域が遺跡範囲となる。平成11年度にはそのうちの50,000㎡分の調査が行われ、500軒程の竪穴住居跡が検出された。本稿では、それら遺跡の総称として本宮地区右岸築堤遺跡群と呼称する。

〔注2〕糸を紡ぐ道具としての紡錘車は紡輪と紡茎から構成されている。考古資料として遺跡から出土するものは、多くは有機質の紡茎部分が残っておらず、土製や石製となる無機質の紡輪部分のみである。本宮地区右岸築堤遺跡群から出土する資料も紡輪のみであるが、同じ糸紡ぎの道具の一部であることから紡錘車と称する。

〔注3〕本宮町教育委員会『阿武隈川右岸地区遺跡調査報告ⅩⅣ』(2002)の第3章考察第1節石製品では、福島県内で報告される石製紡錘車が集成され、本宮地区右岸築堤遺跡群での出土数と未成品数が特筆されること、遺跡群内の出土資料の観察から阿武隈川周辺での石材採取の可能性があること、未成品が4段階に振り分けられ製作工程が辿れることに言及している。

〔注4〕紡輪の形状や重さは、紡錘車を使用した糸紡ぎの方法、糸の細さや経糸と緯糸といった強度の違いによるものと考えられ、特に重量のあるものは紡織というよりも漁網等の縄状のものの撚りに使っていた可能性もある。

〔注5〕『延喜式』に延喜六年(906)に安積郡から入野・佐戸の2郷を割いて、新たに安達郷を設けて安達郡を分立したとの記載がある。郡 は二本松市杉田の郡山台遺跡とされる。

【引用参考文献】
福島県教育委員会『阿武隈川右岸築堤遺跡発掘調査報告1』(2001)
福島県教育委員会『阿武隈川右岸築堤遺跡発掘調査報告2』(2002)
本宮町教育委員会『阿武隈川右岸地区遺跡調査報告ⅩⅣ』(2002)
向坂鋼二「古代における貢納織布生産の一形態」『論集日本原史』(1985)
中沢悟・春山秀幸・関口功一「古代布生産と在地社会―矢野遺跡出土紡錘車の分析を通して―」『群馬の考古学』(1988)
東村純子「考古学からみた古代日本の紡織」(2011)