調査研究コラム

#019 赤柴遺跡の土壙墓と推定される縄文時代早期後葉の土坑について 笠井崇吉

福島県南相馬市原町区馬場字赤柴地内に所在する赤柴遺跡(図1)は、縄文時代と平安時代の集落跡を中心とする複合遺跡で、平成18年~21年の4か年にわたり発掘調査が行われました。

 筆者はこの遺跡の発掘調査と報告書作成に携わり、各時代において興味深い事例が多数認められましたが、報告書はまとめるのが精いっぱいで、個々の事例に十分な考察を加えないままでした。

 今回、報告書作成時にサラッと流してちょっと気になった事例の内、縄文時代早期後葉の集落に伴う墓跡と推定される土坑(墓坑)について考えていきたいと思います。

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図1 赤柴遺跡位置図(Google earthより転載。)

赤柴遺跡で、縄文時代早期後葉の墓坑は複数あるのですが、その中でも特に可能性が高いのが、調査区北部の段丘頂部平坦面に位置する32号土坑と38号土坑です。

 32号土坑(写真1)は北東‐南西方向に長軸をもつ不整楕円形をしており、長軸長158㎝、短軸長140㎝、深さ26㎝を測ります。

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写真1 赤柴遺跡32号土坑遺物出土状況

(財団法人福島県文化振興事業団
2011より転載。)

土坑の底面はほぼ平端で、底面の中央に焼土が円形に散布され、その直上の土層から底部を欠いた深鉢形土器(図2上)が四分割されて平坦に敷くような状態で出土しており、最上層からは石鏃(図2下)が出土しました。

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図2 32号土坑出土遺物

(財団法人福島県文化振興事業団
2011より転載。)

38号土坑(写真2)は32号土坑の北西2mに位置する土坑で、北東-南西方向に長軸をもつ隅丸長方形をしており、長軸長202㎝、短軸長152㎝、深さ22㎝を測ります。

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写真2 38号土坑遺物出土状況

(財団法人福島県文化振興事業団
2011より転載。)

土坑の底面はほぼ水平で、堆積土の中層から底部を欠いた深鉢形土器(図3左)が四分割されて平坦に敷くような状態で出土しており、遺構中央の最上層から長さ33㎝、重さ7.8kgの石皿が出土しています。

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図3 38号土坑出土土器

(財団法人福島県文化振興事業団
2011より転載。)

両遺構の共通する要素としては、平面形が大きいわりには掘り込みが浅く底面が平坦であり、人為的に埋められたような堆積状況であること、出土した土器は底部付近を欠き、縦方向に四分割し、これらを平坦に並べ置くような状態にしていること、さらに出土土器は土坑底面から多少浮いた状態で出土し、その平面的な位置が土坑の北西壁際の中央あたりであること等があげられます。

縄文時代の墓跡の種類は、埋葬施設としては土坑のみの土壙墓、土壙墓の上に配石を設ける配石墓、土器を棺とする土器棺墓、使われなくなった竪穴住居跡に埋葬する廃屋墓、偏平な石を組み合わせて棺を形成する石組石棺墓等が知られており、赤柴遺跡32・38号土坑は土壙墓の類と考えられます。

 福島県下で確実に土壙墓と断定できる例としては、いわき市大畑貝塚B地点の第4号埋葬人骨が出土した土壙墓(写真3)あります。この例では、墓壙は不整楕円形で、長軸長140㎝、短軸長81㎝、深さ30㎝弱を測り、底面は舟形をしています。墓壙の周囲は複数の小穴がぐるりと取り囲んでおり、上屋があった可能性が指摘されています。

 人骨は、墓壙の長軸にあわせて頭を東にした仰臥屈葬(上半身は仰向けで、足を曲げた埋葬状態。大畑貝塚例では下半身を左に捩っている。)の状態で検出されました。人骨とともに副葬品と推定される縄文時代中期前葉の土器2個体(大木7b式および阿玉台式)が遺骸に近接して出土しており、その他に棒状鹿角2点と耳栓様土製品が出土しています。

 興味深いのは人骨の胸部付近に長さ27㎝、重さ不明の石皿が載せられていることで、考古学では抱石葬と呼ばれている埋葬法と考えられます。大畑貝塚の土壙墓の例は縄文時代中期の所産であることから、早期の赤柴例と直接比較対象とはできないかもしれませんが、土壙の平面規模に対して、深さが浅いことや土器の埋納(埋納状況は大きく異なる)が認められること、石皿が出土していること等で共通点が認められます。

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写真3 大畑貝塚の土壙墓

(馬目順一1974より転載。)

それでは、赤柴遺跡32・38号土坑と年代の近い縄文時代早期の人骨をともなう土壙墓はどのようなものなのでしょうか。残念ながら、福島県下ではこの時期の人骨をともなう土壙墓が発見されていないため、長野県上高井郡高山村の湯倉洞窟C-3区の埋葬人骨の例(写真4)で見ていきましょう。

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写真4 湯倉洞窟の土壙墓

(湯倉洞窟遺跡発掘調査団2001より転載。)

ここでは、墓壙が明瞭ではなく、報告文で「浅い墓壙に埋葬されたものと考えられる。」とのみ記されているだけです。おそらく、遺骸がかろうじて隠れる程度の浅いものであったことが推測され、そうであるならば赤柴遺跡の2基の土坑と共通する要素と言えそうです。

 湯倉洞窟例の人骨は右側に頭と体を向け、両足を折り曲げた側臥屈葬の状態で出土しています。共伴する土器は早期中葉の押形文土器の小破片が出土しているだけで、遺物の副葬的な埋納行為は認められていません。ただし、遺骸の腹の上あたりに長さ20㎝、厚さ5㎝の平石が検出されており抱石葬(抱石というよりはのせ石ですが)との関係がうかがわれます。この平石の出土位置は、遺構のほぼ中央にあり、赤柴遺跡38号土坑の石皿の出土位置と共通性を見出すことができます。

次に赤柴遺跡32・38号土坑で共通する土器の埋納状況について見ていきましょう。 両土坑の出土土器は、口縁部から胴上部にかけては、ほぼ一周するくらい遺存していましたが、胴下部から底部にかけては失われており、土坑内に入れられる以前に容器としての機能はなくなっていたようです。

 また、大畑貝塚例のように機能時の状態のままで土坑内に入れられたわけではなく、縦方向に割って板状になったパーツを平坦に敷くような状況で入れていることから、そこに人為性を汲み取ることができます。赤柴遺跡例とは年代および出土状況が異なりますが、神奈川県横浜市の北川貝塚55号土坑例(写真5)では、胴下部から底部を欠いた諸磯b式(縄文時代前期後葉)の深鉢形土器が人骨の東部に被せられた状況で出土しており、遺骸の上に土器を被せる、あるいは頭の下に敷く等の行為が行われていたのかもしれません。

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写真5 北川貝塚55号土坑

(財団法人横浜市ふるさと歴史財団
文化財センター 2007より転載。)

次に赤柴遺跡32号土坑底面の焼土散布についてですが、興味深い例が福島県相馬市断ノ原B遺跡296号土坑(写真6)に認められます。

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写真6 断ノ原B遺跡296号土坑

(財団法人福島県文化振興事業団
1995より転載。)

この土坑はフラスコ状をしており、炭化したクルミやクリが出土してることから貯蔵穴と考えられますが、堆積土中層に焼土で形成された2次的な使用面が認められ、この面に縄文時代前期前葉の埋設土器が設置されていました。埋設土器内からはる少量の細かい骨片が出土していることから、貯蔵穴を墓坑として再利用していた可能性が高いと思われます。

 土坑の形状は赤柴遺跡32号土坑と異なりますが、赤色の物質を土坑の底面および底面とみなされる面に散布する行為は共通しており、背後に墓壙内を赤くする習俗の存在をうかがわせます。

 なお、赤柴遺跡32・38号土坑に後続する縄文時代前期初頭の40号土坑(写真7)でも、フラスコ状土坑の中面に土器の埋納と抱石と推定される磨面を有する大型礫が出土していることから、墓跡である可能性が高く、縄文時代前期においては、貯蔵穴を墓坑として再利用する墓制が普及していたと考えられます。

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写真7 赤柴遺跡40号土坑

(財団法人福島県文化振興事業団
2011より転載。)

以上、赤柴遺跡32・38号土坑が墓跡である可能性を探ってきましたが、人骨や装飾品等の決定的な副葬品が無いものの、墓跡である可能性は比較的高いものと考えられます。

 縄文時代晩期の亀ヶ岡文化の土壙墓を分析した中村大さんの土壙墓の認定方法(中村2007)によると、「底面から覆土下部で完形に近い土器が出土」という項目に、32・38号土坑、「赤色顔料を土坑底面や上面に撒布する」という項目に32号土坑、「上面に礫を立てる、あるいは置く」という項目は38号土坑に近いものと考えることができます。

 このため、中村大さんの認定方法に従えば、2つの項目を満たしている32・38号土坑は土壙墓と認定される可能性が高いと言えるでしょう。

最後に、32・38号土坑と集落跡との関係について少し触れたいと思います。図4は赤柴遺跡32・38号土坑と、その周辺の縄文時代早期後葉~前期初頭の遺構分布状況です。

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図4 赤柴遺跡縄文時代
早期後葉~前期初頭の遺構配置

黄色の遺構は32・38土坑、ピンク色が縄文時代早期後葉の遺構、水色が縄文時代早期末葉~前期初頭の遺構です。縄文時代早期後葉では、32・38号土坑に先行する時期を含む37・108・123号土坑、12・13・15・35号特殊遺構といった墓坑の可能性のある遺構が北東-南西方向に並び、その北西側に3・6号住居跡、5・6・9・10・14号特殊遺構といった住居跡の可能性のある遺構が分布しています。この時期では北西側の居住域と南東側の墓域が隣接して形成されているようです。

 縄文時代早期末~前期初頭になると、墓坑の可能性のある土坑は40・81号土坑のみとなり、居住域が南東側へ拡大して1・2・4・5・11・14・15・44・45・50号住居跡、7・8・32・34号特殊遺構といった住居跡の可能性のある遺構が北西-南東方向に分布するようになります。この時期の墓域は図の南西側の削平されて失われてしまった部分に中心が移っていったものと推定しています。

【引用・参考文献】
馬目順一1974『大畑貝塚調査報告』福島県・いわき市教育委員会
上守秀明1987「第7章埋葬と信仰」『房総考古学ライブラリー3縄文時代(2)』(財)千葉県文化財センター
春成秀爾1992「墓」『図解・日本の人類遺跡』日本第四紀学会
財団法人福島県文化センター1995「段ノ原B遺跡」『相馬開発関連遺跡調査報告Ⅲ』福島県文化財調査報告書第312集
湯倉洞窟遺跡発掘調査団2001『湯倉洞窟-長野県上高井郡高山村湯倉洞窟調査報告-』高山村教育委員会
財団法人横浜市ふるさと歴史財団 文化財センター2007『港北ニュータウン地域内埋蔵文化財調査報告39北川貝塚』横浜市教育委員会
中村 大2007「亀ヶ岡文化の葬制」『縄文時代の考古学9 死と弔い-葬制-』
中村耕作2008「墓壙への埋納」『総覧縄文土器』総覧縄文土器刊行委員会
財団法人福島県文化振興事業団2011「赤柴遺跡」『常磐自動車道遺跡調査報告63 』福島県文化財調査報告書第472集