#017 遺物の出土状況について考える 丹治 篤嘉
遺跡の発掘調査の際には、調査員は様々なことを考えながら調査を行っています。出土した遺物はいつの時代のものか、竪穴住居跡(※縄文時代~平安時代にかけてつくられた一般的な家の跡)などの遺構はどのような構造か、どのような地形につくられているか、出土した遺物と遺構との関係はどうか、遺跡全体の評価は、等々。
今回は、その中でも、遺物の出土状況に関するお話をしたいと思います。
遺跡の発掘調査をしていると、「出てきた土器はいつの時代(何年前)のものですか?」という質問を受けることがよくあります。
確かに、見つかった土器が縄文時代のものなのか、弥生時代や古墳時代もしくはそれ以降のいつの時代のものなのかを判断することは、その土地にはどの時代から人の営みがあったのかを考える大切な材料となります。
ただし、発掘調査においては、単に土器が見つかっただけではなく、その土器が地面の中のどの地層から、どのような状況で見つかったのかという情報を把握し、記録として残すことがとても重要なのです。
写真1 竪穴住居跡の調査風景
例えば、発掘調査では、竪穴住居跡から土器が見つかった場合、その土器が竪穴住居跡の内部に堆積した土のうち、何層目の土から出たものなのかという情報を必ず記録して取り上げています。そして、この層位の観察に加えて、土器の出土状況を検討します。
土器が竪穴住居跡の床面にまとめて置かれている場合や、床面に埋め込まれている場合等は、その土器は竪穴住居跡が機能していた最終段階において使われていた土器と考えられ、竪穴住居跡の年代を示す資料となります。
写真2 遺物が見つかった様子
一方、竪穴住居跡の内部から見つかった土器でも、以下のように、出土した層位によっては、その竪穴住居跡の年代を示すものとはいえない場合があります。
すなわち、竪穴住居跡は、使われなくなった後に長い年月をかけて埋没していきますが、埋まりきらずに窪地となった状態の時に、後世の人が土器捨て場とすることがあるのです。
この場合、その竪穴住居跡の内部から見つかった土器でも、厳密にはその竪穴住居跡の年代を示す土器とはいえません。
このように、見つかった土器が、本当にその竪穴住居跡に生活していた人が使った土器なのかを判断するのは、なかなか難しいことです。そのため、土層及び出土状況の観察が重要となるのです。
私は、このような遺物の出土状況に関して、古墳時代中期後半~平安時代の竪穴住居跡に付設されるカマドの燃焼部(※火を焚く場所)から出土する遺物について考えたことがありました(註1)。
そこで取り上げた事例のうち、特にカマド燃焼部から出土する土師器甕(※主に煮炊きに使用する胴が長い土器)の事例をいくつか紹介してみましょう。
写真3 竪穴住居跡に堆積した土層の観察
図1と図2は、いずれも土師器甕がカマドの掛け口に設置されたような状態で燃焼部からみつかったもので、あまり違いがないように思えますが、図1はカマドに設置されたまま遺棄されたもの、図2はカマドの天井部を壊した後に置かれたものと考えられる事例です。
このように考えた根拠は、カマドの燃焼部内部に堆積した土層の観察結果からです。その中でも大切なのは、カマドの天井部を構成していた土層です。
カマドはいろりと違って、火を焚く箇所の天井部はドーム状に覆われています。この天井部はある程度の強度が必要ですから、基盤土である黄褐色土や粘土を使用することが多いです。
また、カマドでは火を焚くため、天井部の内側は熱を受け、赤く変色します。カマドの燃焼部内にこのような土が観察されれば、それはもともとカマドの天井部を構成していたものと考えられます。
さて、この天井部が具体的にどのような状況で見つかったのか、図1と図2の事例を見ながら説明したいと思います。
図1は、郡山市正直A遺跡からみつかった古墳時代の竪穴住居跡(58号)のカマドです(註3)。
図1 郡山市正直A遺跡の竪穴住居跡
(58号)のカマド
図1の左に示した土層断面図で、第2層(※網点で示した箇所)が明黄褐色粘土で、天井部が崩落した土と判断されます。
この第2層が、燃焼部の底面に接して見つかった場合、当時の人が天井部を意図的に壊して崩落させた可能性もあるのですが、カマドの煙突から自然に流入したとみられる第3層とした土の上に第2層が堆積しているため、天井部は自然に崩落したと判断されます。
その結果、燃焼部から出土した土師器甕は、もともとカマドの掛け口に設置された状態で遺棄されたものと考えることができます。
図2は、本宮市山王川原遺跡から見つかった古墳時代の竪穴住居跡(19号)のカマドです(註4)。
図2 山王川原遺跡の竪穴住居跡
(19号)のカマド
詳細は省きますが、報告書では、土層断面図で第3層(※薄い網点で示した箇所)とした土が天井部崩落土、第2層(※濃い網点で示した箇所)がカマド崩壊後に埋められた土である可能性が指摘されています。つまり、カマドの天井部を壊した後に、土師器甕を据え直していると判断された事例です。
以上の事例から、同じくカマドの燃焼部から見つかった土師器甕でも、どの土を天井部と見極めるかにより、その当時のままカマドに据えられていたものと、壊された後に置かれたものとが存在すると判断することができます。
また、カマドの燃焼部には、天井部に相当する土層が認められない場合もあります。この場合は、本来あったはずの天井部の土が、カマドを破壊する際に取り去られていると考えられます。
このような土層の観察をすることにより、竪穴住居跡の廃絶に際して、当時暮らしていた人たちがカマドに対してどのような行為をしていたかがわかります。
このように、発掘調査では、土と対話をし、遺物の出土状況について考えながら、少しでも多くの情報を記録として残すよう努力しているのです。
さて、私は註1文献で、これまで福島県教育委員会が調査してきた35件の事業、計264冊の報告書からカマドが検出された1,737軒の竪穴住居跡を抽出し、カマドの燃焼部における遺物出土状況を検討しました。
その結果、上記図1のように、カマドに土師器甕を設置したまま遺棄された事例(※私が「設置」と分類した事例)はわずか4例しか認められませんでした。そして、同じく、図2のように、カマドを壊した後に遺物が置かれている事例=「廃棄」と分類したものは84例ありました。
また、この他、燃焼部から土師器甕が出土しているものの、どちらとも判断のつかない事例が40例ありますが(註5)、これらの計128(4例+84例+40例)例を除いた残りの1,609軒の竪穴住居跡では、燃焼部から完全な形に近い土師器甕等の遺物が出土していません。
このことは、大多数のカマドが、天井部が破壊されているかどうかは別としても、住居の廃絶段階には掛け口から土師器甕が取り外され、機能時の状態を留めていないことを示しています。
これまで、竪穴住居跡が使われなくなる段階にはカマドを破壊することが多いと一般的に考えられてきましたが、註1文献ではそれを数量的なデータで提示したわけです。
また、カマドを破壊する目的としては、カマドに宿るカマド神を鎮める、あるいは封じ込めるためといった、いわゆる「カマド祭祀」と呼ばれる考えがあります。
註1文献は、出土状況について検討し、「設置」や「廃棄」を特徴毎に分類する基礎的な作業が主体であったため、カマドを破壊する目的等については言及しませんでした。
しかし、上記のデータに基づけば、カマドの廃絶に際しては、カマドの燃焼部には完全な形に近い遺物が残されないものが約93%(1,737軒中1,609軒)と圧倒的に多いことから、「カマド祭祀」の内容を考える上でも、この93%のデータの指す意味は重要なものと考えています。
今回、註1文献の検討から数年が経過し、刊行された報告書が増えたため、新たなデータの集積を試みました。資料の抽出のため検索した発掘調査報告書は、表1の通り6件の事業、計28冊です。
その結果、新たに表2に示した59軒の竪穴住居跡の事例を確認しましたが、やはり「設置」とみられる事例は確認されず、かえって、「設置」の希少さがますます浮き彫りとなりました。
また、この59軒の事例の中で、良好な「廃棄」の事例が確認されました。それは、喜多方市小田高原遺跡の調査事例で、1・2・6・14号の各竪穴住居跡のカマド燃焼部から、いずれも土師器甕が伏せて置かれている状態でみつかりました(註6)。これは、私の分類では「廃棄Ⅰa類」に分類されるものです(註7)。
実は、註1文献での検討では、「廃棄Ⅰa類」とした確実な事例は3例しかなかったので、小田高原遺跡の調査報告は貴重な追加事例といえます。また、同じ遺跡で複数例の同様の「廃棄」の行為が認められることは大変興味深い事実といえるでしょう。
さらに、細かい話になりますが、「廃棄Ⅰa類」とした以外に土師器甕を倒立させる事例は、古墳時代が1例、奈良時代が3例、平安時代が4例で(註8)、ほとんどが奈良時代以降のものでした。
今回の小田高原遺跡の事例はいずれも平安時代のものであるため、土師器甕を倒立させる事例は、奈良時代以降のものがほとんどであるということが、より強くいえるようになり、さらにはその中でも平安時代のものが多いともいえます。
今後も調査事例は増え続けますが、カマドの燃焼部から出土する土師器甕に関しては、「設置」のものは少ないという傾向は変わらないと予想されます。
しかし、「廃棄」と考えられる事例が追加されることにより、時期ごとの「廃棄」の在り方がもっとわかるようになり、当時の人たちの行動・思想などの一端が垣間見えることとなります。
そのため、私は、今後ともデータの集積を続けて遺物の出土状況について検討していきたいと考えています。
(註1)丹治篤嘉 2010 「カマド燃焼部における遺物出土状況の検討」『福島県文化財センター白河館研究紀要2009』
(註2)厳密には、同じ古墳時代でも、図2は図1よりも少し後の時期のもの。
(註3)図は、下記文献から引用・加筆し作成。
福島県教育委員会 1994 『母畑地区遺跡発掘調査報告34』福島県文化財調査報告書第288集
(註4)図は、下記文献から引用・加筆し作成。
福島県教育委員会 2001 『阿武隈右岸築堤遺跡発掘調査報告1』福島県文化財調査報告書第380集
(註5)「保留」は、設置されたままなのか、廃棄されたものなのか判断する根拠に欠けるもの。
(註6)福島県教育委員会 2011 『阿賀川改修(長井地区)遺跡発掘調査報告1』福島県文化財調査報告書第482集
(註7)6号竪穴住居跡に関しては、土師器甕が2個体伏せられているが、片方の土師器甕の上には4個の杯が重ねられている。これを廃棄に伴うものとみれば、私が分類した「廃棄Ⅳa類」となるが、報告書中で、支脚の高さ調整として使われたものである可能性も指摘されている(福島県教育委員会 2012 『阿賀川改修(長井地区)遺跡発掘調査報告2』福島県文化財調査報告書第486集)。ここでは、杯が載せられていない土師器甕を確実な事例と捉え、「廃棄Ⅰa類」としておく。
(註8)註1文献でカウントした、「廃棄Ⅰa類?」は、今回は除いた。
【参考文献】
福島県教育委員会 2009 『阿武隈東道路遺跡発掘調査報告2』福島県文化財調査報告書第463集
福島県教育委員会 2010 『阿武隈東道路遺跡発掘調査報告3』福島県文化財調査報告書第475集
福島県教育委員会 2009 『会津縦貫北道路遺跡発掘調査報告9』福島県文化財調査報告書第462集
福島県教育委員会 2011 『会津縦貫北道路遺跡発掘調査報告10』福島県文化財調査報告書第474集
福島県教育委員会 2011 『会津縦貫北道路遺跡発掘調査報告11』福島県文化財調査報告書第481集
福島県教育委員会 2012 『会津縦貫北道路遺跡発掘調査報告12』福島県文化財調査報告書第485集
福島県教育委員会 2009 『福島空港・あぶくま南道路遺跡発掘調査報告20』福島県文化財調査報告書第464集
福島県教育委員会 2010 『福島空港・あぶくま南道路遺跡発掘調査報告21』福島県文化財調査報告書第476集
福島県教育委員会 2009 『常磐自動車道遺跡調査報告54』福島県文化財調査報告書第453集
福島県教育委員会 2009 『常磐自動車道遺跡調査報告55』福島県文化財調査報告書第458集
福島県教育委員会 2009 『常磐自動車道遺跡調査報告56』福島県文化財調査報告書第459集
福島県教育委員会 2009 『常磐自動車道遺跡調査報告57』福島県文化財調査報告書第460集
福島県教育委員会 2010 『常磐自動車道遺跡調査報告58』福島県文化財調査報告書第461集
福島県教育委員会 2010 『常磐自動車道遺跡調査報告59』福島県文化財調査報告書第467集
福島県教育委員会 2010 『常磐自動車道遺跡調査報告60』福島県文化財調査報告書第469集
福島県教育委員会 2011 『常磐自動車道遺跡調査報告61』福島県文化財調査報告書第470集
福島県教育委員会 2011 『常磐自動車道遺跡調査報告62』福島県文化財調査報告書第471集
福島県教育委員会 2011 『常磐自動車道遺跡調査報告63』福島県文化財調査報告書第472集
福島県教育委員会 2010 『常磐自動車道遺跡調査報告64』福島県文化財調査報告書第473集
福島県教育委員会 2010 『常磐自動車道遺跡調査報告65』福島県文化財調査報告書第478集
福島県教育委員会 2011 『常磐自動車道遺跡調査報告66』福島県文化財調査報告書第479集
福島県教育委員会 2011 『常磐自動車道遺跡調査報告67』福島県文化財調査報告書第480集
福島県教育委員会 2014 『常磐自動車道遺跡調査報告68』福島県文化財調査報告書第491集
福島県教育委員会 2014 『常磐自動車道遺跡調査報告69』福島県文化財調査報告書第492集
福島県教育委員会 2014 『常磐自動車道遺跡調査報告70』福島県文化財調査報告書第493集
福島県教育委員会 2012 『阿武隈川上流河川改修事業 トロミ地区遺跡調査報告1』福島県文化財調査報告書第487集
福島県教育委員会 2011 『阿賀川改修(長井地区)遺跡発掘調査報告1』福島県文化財調査報告書第482集
福島県教育委員会 2012 『阿賀川改修(長井地区)遺跡発掘調査報告2』福島県文化財調査報告書第486集