#003 陸奥国府に見る宇多郡の徭丁 安田 稔
財団法人福島県文化振興事業団遺跡調査課(※旧名称:2001年時点)では、相馬地域開発中核工業団地造成に関連して新地町に所在する武井地区製鉄遺跡群の発掘調査を昭和59年から4年間実施し、当遺跡群が全国でも有数の古代製鉄・鋳造遺跡であることを明らかにしました。
その後同事業西地区製鉄遺跡や原町火力発電所建設関連の金沢地区製鉄遺跡群の調査を加え、古代において福島県浜通り北半地区は一大鉄生産地であったことが知られることとなりました。
これらの成果は報告書として刊行し公表したところですが、その後武井地区製鉄遺跡群に関連する興味ある資料が製鉄操業時に陸奥国の国府であった多賀城域(山王遺跡)から出土しています。
多賀城市では近年多賀城(陸奥国衙)の外域が調査され、国衙南側の低地に政庁南門から城外に延びる南北大路とそれに交わる東西大路を基準とした方挌地割が確認されています。
その地割内では多数の建物跡をはじめとする多くの遺構と多種の遺物が検出され、国司の館と推定される個所も見つかるなど大きな成果をあげています。
そのような中ここで注目する資料は南2西1区と呼ばれる地割内から検出された工房跡と墨書土器、それに周辺から出土した鉄製品・鉄滓です。
墨書土器は図で見るように土師器杯の外面に「宇多・・・」と書かれているもので、意味するところは陸奥国宇多郡出身の複数の人名である可能性が高く、宇多郡は現在の相馬市・新地町にあたると考えられ、武井地区製鉄遺跡群の所在地であることが思い起こされます。
出土土器
そして同地区の遺構には工房跡と考えられる竪穴と比較的多くの鉄滓が出土する河川跡が見つかっており、これらを総合すると宇多郡在住の班田農民が雑徭の負担として陸奥国府におもむき、当区画において得意分野である鉄製品の製作にあたったと推量することができます。
おそらく宇多郡は製鉄遺跡が示すように以前(武井地区製鉄遺構群における鉄生産は7世紀後半から始まる)から鉄生産地として把握されており、その技術に長けた人物が選ばれたものと思われます。
なお、鉄滓自体は少量ずつ方挌地割の広い範囲から出土していることから、工房近辺をひとつの拠点としながら要求に応じて各箇所に出向いて鍛冶作業などを行うこともあったと予想されます。
また、もうひとつ注目される山王遺跡出土鉄製品として鋳物の獣脚があります。
山王遺跡出土獣脚
それは火舎(香炉の一種)の脚の部分と考えられるもので製品としては初の出土品ですが、同種製品の製作地としては、これまた武井地区製鉄遺跡群が知られるところであり、武井地区製鉄遺跡群向田A遺跡では多量の獣脚鋳型が器物鋳型とともに出土しています。
形態および時期についてはさらに検討が必要ですがやはり両者を関連づけて考えたいところです。
なお、向田A遺跡調査時は火舎の使用を寺院中心に考えましたが、多賀城域での出土は国司クラスの館においても使用されていたことをうかがわせます。
以上、古代における陸奥国府と宇多郡のつながりの一側面を考古資料から紹介しました。律令制の下、陸奥国府を支える上で陸奥南部(福島県域)は様々な要求にこたえたと考えられ、そのひとつに浜通り北半の製鉄技術があったとすることができるでしょう。
【安田 稔 2014.5.20掲載】(※2001年5月『考古■(金へんに曼)筆』の掲載記事。)