調査研究コラム

#001 古墳を訪ねて 阿部知己

福島県に古墳はありますかと聞くと、大抵の人から「会津にあったと思う」とか、「本宮町にあったはずだ」という答えが返ってくるのではないだろうか。福島県では、特に会津若松市にある墳丘の長さ百十四メートル、県内で第三位の規模をもち、鏡や刀など豊富な副葬品が納められていた大塚山古墳という前方後円墳はあまりにも有名である。

 古墳の形を空から見た時、丸や四角など合計七タイプ程挙げられる。会津大塚山古墳のような前方後円墳は丸と四角を合わせた形で、俗に鍵穴形と表現されている。しかし、四角が前で丸が後ろという見方は明確な理由があってのことではない。その名付け親は、今の栃木県宇都宮生まれの江戸時代の学者、蒲生君平(がもうくんぺい。一七六八~一七八二)だった。蒲生君平が『山陵志』(さんりょうし。一八〇九年刊)の中で「前方後円」と書いていたのを踏襲し今に至っている。

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大玉村二子塚古墳

福島県に古墳はありますかと聞くと、大抵の人から「会津にあったと思う」とか、「本宮町にあったはずだ」という答えが返ってくるのではないだろうか。福島県では、特に会津若松市にある墳丘の長さ百十四メートル、県内で第三位の規模をもち、鏡や刀など豊富な副葬品が納められていた大塚山古墳という前方後円墳はあまりにも有名である。

 古墳の形を空から見た時、丸や四角など合計七タイプ程挙げられる。会津大塚山古墳のような前方後円墳は丸と四角を合わせた形で、俗に鍵穴形と表現されている。しかし、四角が前で丸が後ろという見方は明確な理由があってのことではない。その名付け親は、今の栃木県宇都宮生まれの江戸時代の学者、蒲生君平(がもうくんぺい。一七六八~一七八二)だった。蒲生君平が『山陵志』(さんりょうし。一八〇九年刊)の中で「前方後円」と書いていたのを踏襲し今に至っている。

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本宮市庚申壇古墳

郡山市田村町にある大安場古墳という大型古墳は、二つの四角が組み合わさった前方後方墳と呼ばれる形をしている。墳丘の規模は八十ニメートル以上と、福島県内では会津大塚山古墳に次ぐ規模を持ち、後世の墳丘の改変が若干認められるものの築造当時の形そのままに残していることが、郡山市教育委員会・福島大学の調査によって明らかとなりなった。

 中通り地方には、郡山市正直三五号墳(墳長三十七メートル、現存)、須賀川市仲ノ平六号墳(墳長二十五・九メートル、消滅)などの前方後方墳が存在するが、どれも規模的に大安場古墳の半分以下である。

 大安場古墳では、後方部と呼ばれる南側の高まりの頂部に、墳丘を造らせた人物を埋葬したと思われる墓穴の痕跡があることも確認されている。従来の考え方には、中通り地方では、古墳時代中期(今から約千六百年前)から中規模の古墳の築造が始まり、古墳時代前期と呼ばれる時期には、墳長八十メートルをこえるような大型の古墳は無いという思い込みがあった。大安場古墳はその考え方を一変させた大変興味深い発見でもあった。

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本宮市金山古墳

もしかして、どこかの丘陵の上や林の中にいまだ確認されていない我々の祖先の墓があるのかもしれない。

【阿部知己 2014.4.23掲載】(※1997年1月『考古■(金へんに曼)筆』の掲載記事。)