徳定A・B遺跡
- 調査期間
- 令和2年4月~
- 場所
- 郡山市田村町徳定大柳
- 該当時代
- 古代・中世
- 調査原因
- 阿武隈川の河川改修工事
徳定A・B遺跡は郡山市内を流れる阿武隈川の右岸に位置し、郡山盆地最大の沖積地上に立地しています。
昭和47・49~50年の東北新幹線の建設に伴う発掘調査では、古墳時代後期の大きな集落跡が確認されました。また平成に入ってから行われた郡山市の区画整理事業に伴う発掘調査でも、縄文時代~中世の遺構・遺物が確認されています。
5月
調査が本格的にはじまりました。すでにたくさんの遺構・遺物が確認されています。調査区の北側は古墳時代後期の集落跡が、南側には中世の集落跡があるようです。
写真1 安全に注意して発掘作業を進めます。
写真2 古墳時代後期の土師器が出土しています。
中世の集落跡から茶釜とみられる鉄製品が完全な形で出土しました。底部には3つの脚がつけられています。
写真1 鉄製品が出土したようす
6月
5月に引き続き、中世の集落跡を調査しています。当時の建物の跡とみられる多数の柱穴や、大きな溝跡、墓穴などが確認されています。出土したものには、青磁や白磁といった輸入陶磁器や古銭のほかに、動物の骨や鍛冶滓(鍛冶を行った際に出る不純物の塊)などがあります。
写真1 多くの柱穴が見つかっています
写真2 大きな溝跡
写真3 出土した青磁の盤
写真4 出土した動物の骨
7月
古墳時代の竪穴住居跡を調査しています。床面の下からは故意に底部を割った土師器の杯(つき 現在のお茶碗のようなもの)が出土しました。いったいどんな意味が込められているのでしょうか。
写真1 竪穴住居跡を調査中
写真2 慎重に土器を掘り出しています
写真3 底部を割った土師器の杯
10月
10月10日(土)に、徳定A・B遺跡の現地公開を開催しました。
当日は台風が接近のため、現場事務所内でのパネルおよび出土遺物の展示のみとなりましたが、100名近いみなさまにご来場いただきました。
写真1 現地公開のようす
現場での調査は終盤に差し掛かってきました。現在は鎌倉時代に掘削されたとみられる大きな堀跡を調査しています。
写真2 鎌倉時代の堀跡を調査中です。
11月
調査区の北端ではおびただしい数の古墳時代の土師器が出土しています。なかには、意図的に底部や胴部を打ち欠いた物や、土師器に混じって石製模造品(せきせいもぞうひん)が出土しています。おそらくおまつりに使用した道具類を置いていった場所と思われます。
写真1 出土した様子
写真2 底部を打ち欠いた土器
写真3 石製模造品
3月
昨年の5月に中世の土坑から出土した、鉄製獣足付手取釜(てつせいじゅうそくつきてとりがま)ですが、X線写真の撮影・保存処理を終えて福島に戻ってきました。
全長約25㎝、重さ5㎏ほどの大きさです。直径20㎝ほどの大きさの釜の脇に取り付けられた長い脚が特徴的です。釜の上部には注ぎ口と、鉉(つる 取っ手)を付けるための鐶付(かんつき)が2個付いています。イメージとしては鉄瓶に三脚が付いたものです。
写真1 鉄製獣足付手取釜
図1 イメージ図
写真2 X線写真
X線写真を見ると、サビに覆われた部分の様子が良く分かります。表面の観察では見られなかったヒビ割れが、多数確認されました。サビに覆われていたことが幸いして現在まで形を留めていたものと思われます。最も特徴的な脚部ですが、サビを完全に落としてしまうと崩壊する恐れがあったため、サビをある程度残した状態にしました。X線写真を良く見ると、脚部の付け根から中程にかけて、表面に凹凸が認められます。おそらくこの部分に獣面の表現が施されているものと思われます。
写真3 脚部X線写真 拡大
また底部には、湯口(ゆぐち)と呼ばれる痕跡が認められます。これは鋳物を作る際に、溶けた鉄を鋳型に注ぎ入れる際の入り口の痕跡です。
写真4 一文字の湯口痕
なお本遺跡から出土したものに非常に良く似た資料が、九州国立博物館に所蔵されています(九州国立博物館のHPの収蔵品ギャラリーで「獣足手取釜」と検索すると画像を見ることが出来ます)。