〔2〕古代遺物復元研究の未来とその手法 鈴 木 勉
1 復元研究の歩み(これまでの復元研究を踏まえて)
1)復元研究実施に至る経緯
1999年2月、橿原考古学研究所の今津節生さんのところに1本の電話があった。福島県立博物館でのかつての同僚である福島県教育庁文化課(当時)の森幸彦さんからだった。福島県で新たに白河市に文化財センターを建設するという。ただレプリカを作るだけではつまらないし、新しい文化財センターの特徴づけるものとして、森さんがかねてから研究していた「技術の復元」を取り上げたいとのことであった。それについて相談する適当な人はいないか、というのである。保存科学研究室の小さな部屋の隅で黒塚古墳の三角縁神獣鏡を調査していた鈴木がたまたまそこに居合わせた。
今津さんは「それなら今ここにいい人がいますよ。鈴木さんという人で、とある会を作って奈良県立橿原考古学研究所附属博物館のリニューアル展示の企画の一つである金銅製馬具などを復元した人ですよ」と森さんに答えた。とある会というのが、今回の復元研究の母胎となった「文化財と技術の研究会」である。
今津さんに替わって電話口に出た鈴木は森さんから復元の主旨を伺った。「わかりました。やりましょう」と言って電話を切った鈴木は、東京へ戻り研究会のメンバーを集めて福島行きの計画を立てた。復元研究のスタートである。
2)再現実験から復元研究へ
それより5年前の1994年鈴木は、翌年開館を控えていた五條市立五條文化博物館(勝部明生館長・当時)との共同研究で、国宝栄山寺鐘の池の間(銘文が鋳出された部分)鋳型と和歌山県隅田八幡宮蔵人物画像鏡鋳型の復元を行った。復元研究と博物館展示を合体させようという試みの始まりである。それ以前の鈴木は松林正徳氏、黒川浩氏と共に古墳時代の金工技術に関する再現実験研究を続けていた。再現実験は、その製品全体を復元しようとするものではなく、古代の個別の要素技術を実験によって明らかにしようとするものであった。しかし五條市立五條文化博物館との共同研究は五條市の歴史的特性を生かした金石文製作技術の復元と展示を目的としたので、梵鐘自体や鏡自体を復元するものではないものの、より実際に近い工程と鋳型の復元を試みることになった。この研究の成果についてはそれなりのものを得た(1)が、他にも大きな意味を持つ目的があった。それは、復元研究の経過や試行錯誤をそのまま展示に用いようというものであった。それまでの博物館でも復元研究を行うことはあったが、その展示は完成品を展示することによって博物館の観覧者に対して「作り方の説明」をしようとするものであった。しかし私たちは復元研究の成果ばかりでなく経過も展示して、観覧者に研究の全てを提供し、共に考えようとしたのであった。
続いて1995年鈴木は、橿原考古学研究所附属博物館のリニューアルに基づく復元研究とその成果展示の計画に加わった。復元の対象は、馬具、象嵌、文字彫刻などであり、松林、黒川、小西一郎、依田香桃美、山田琢の各氏が加わった。この復元研究で製作した品物のほとんどは橿原考古学研究所附属博物館の常設展示に並んでおり、研究の経緯と試行錯誤の経過については『文化財と技術』第1号に「古代金工・木工技術の復元研究」と題する特集でまとめた(2)(3)(4)。
今回の福島県文化財センターとの共同復元研究は、橿原考古学研究所附属博物館との共同研究から時間的にも趣旨の上からも密接に繋がるものである。本報告とともに『文化財と技術』第1号を是非ご参照いただきたい。
3)技術の復元そして人間・社会の復元へ
前項で紹介した『文化財と技術』第1号において、復元研究の大きな目的の一つとして「技術の復元から人間社会の復元へ」(5)を掲げたが、その主旨は今回の復元研究でも不変である。以下にそれを再録する。
「私たちがかねてより提案しているのは、古代遺物の形態研究ではなく、古代の技術研究である。技術は本来「無形」なものであるから、古代の技術研究は、遺物のかたちからアプローチするのが主たる研究手段となる。かたちから「無形」の技術を推し量るという壁が存在するのである。
また、「無形」である技術を遺物から復元しようとすることは、遺物を作った人間と彼らの生活を復元しようとすることに他ならない。技術も当時の社会の制度や価値観の影響下にあったことは確かなことであり、技術の形態もそれによって大きく変化することからすれば、古代の技術や技術者の暮らし振りから古代の社会の姿を復元することが可能である。今回の復元研究もそうした大きな目標へ向かう過程の上で捉えることとしたい。
私たちが目指すところの復元研究は、形を似せるのが直接的な目的ではなく、「無形」の技術を似せるのが主要な目的である。しかし、だからといって形をおろそかにするのではない。古代の技術について考えようとすれば、その多くを遺物の広義の「かた ソ」に依らざるを得ないのであるし、「無形」の技術と遺物の「かたち」は技術の必然性で繋がっている。技術がある程度復元できたとすれば、出来上がる製品のかたちも遺物と似てくるであろう。」
遺物に似せて作ろうとするのか、あるいは無形の技術の解明にこだわろうとするのか、実際に復元の作業にあたる技術者にとっては、製作しながら脳裏にゆらめく強い誘惑がある。復元品が展示品となって万人の鑑賞の目にさらされるという予測と、自分自身がより美しいものを作りたいという作家としての潜在意識とによって、ややもすれば考古学的に推定される遺物の完成当時の姿に比べて「現代的に」美しすぎる復元品を作り上げてしまうことがままある。しかしながら、その作家の迷いを決して否定するようであってはならないだろう。その迷いを冷静に見つめることによって、古代工人の無形の技術の復元研究が可能になるはずである。その葛藤の中で生まれる復元品にこそ、古代の工人の心や暮らしぶりを復元しようとする私たちの精神が具現されると言うべきではなかろうか。
2 復元研究の手法
1)プロジェクトチームの運営を通して古代の生産体制を研究する
橿原考古学研究所付属博物館との共同研究に参加した者は、文化財と技術の研究会のメンバーだけでも6人であった。プロジェクトチームの結成である。このプロジェクトチームの結成という行為に大きな意義のあることが後に明らかになっていったのであるが、そもそもは、以下の2つの理由によって結成したものである。一つは、それまでの再現実験や復元の助力をお願いしてきた方々と今後も一緒に復元研究を続けていきたいと考えたことであり、今ひとつは、再現実験をしてきたメンバーだけでは例え部品製作にとどまるといえども展示に耐える復元製作は難しいと感じ、新しいメンバーを増やす必要があると考えたことであった。古代の製品については、現代の人々が金工品、木工品といった便宜上の分類はするものの、実は全てが様々な素材と技術の複合製品である。それを復元しようとするメンバーは、それぞれが豊かな経験を持っているとはいえ、現代の細かな分業的生産体制の中で生きている技術者であるために、単独や2,3人の技術者だけでは技術の複合製品である古代の製品の復元研究に至ることが難しいと考えたのである。
そのようにして、私たちがプロジェクトチームを結成し運営していく過程で、実製作上様々な問題が浮き上がってきた。その解決のための試行錯誤の中で私は「プロジェクトチーム運営の苦労は古代の工人たちも同じだったのではなかろうか」とフッと考えた。その思い付きをきっかけにして、それまで思いが至らなかった古代の生産体制の姿が浮かび上がってきた。プロジェクトチーム運営の難しさは古代の工房の分業体制の問題に相通ずるものがあったのである。多人数による分業を支えるには、言語の共通化、組み立てのために必要な寸法精度、組み立ての為の生産管理技術、接合のためのすり合わせ、コーディネーターの存在と役割の問題を解決する必要がある。そのどれが欠けても、古墳時代とはいえ、小さな製品のどれ一つも完成し得ないことを改めて知ることになった。
今回の復元研究には笊内37号横穴墓出土馬具セットの復元が含まれている。私たちがこれまで実施して来た単一構成部品の復元研究とは異なり、馬具セットの総合的な復元であるため、それまでとは比較にならないほどの多様な素材と技術が求められた。それぞれの知識と技術を持った技術者、作家、研究者の多数の参加と協力が必要であった。それはとりもなおさず、大がかりな古代の生産体制を明らかにする確実な手がかりとなるという大きな期待を抱いた。
2)復元研究成果を積み上げる(技術を文章に表す矛盾と意味)
(1) 五体・五感を複合的に同時使用する「技術」を報告書でどう伝えるか
『文化財と技術』第1号「古代木工・金工技術の復元研究」の拙文(6)で述べたように、五体・五感を複合的に同時使用する「技術」をシーケンシャルにしか表現できない「文字」で表記していくこと自体に大きな矛盾があると言えよう。技術が言葉では伝承されてこなかったという歴史的事実がそれを裏付ける。技術伝承手法研究の永続的な課題となるであろう。とはいえ、過去に行われた復元研究の報告が少ないのは、私たちにとってはとても口惜しいことでもあるし、古代史研究にとっても大きな損失である。その矛盾に対して果敢に立ち向かっていくことは、研究成果を積み上げるという学問本来のあり方のためにどうしても必要なことである。
私たちはこれまで、再現実験や復元研究の成果を出来るだけ文字で表記し、写真や図をその手助けとし、報文として残してきた。できるだけ実作業に近い報告になるよういくつかの試みをしてきた。その一つに依田氏が「古代木工・金工技術の復元研究」において試みた「現場の会話的表現」を挙げることが出来る(7)。また、同書において松林氏や黒川氏は自らの作業順序に従って心に浮かんだことを淡々と書いていったのであるが、私にはそのことによってより忠実に復元過程を文字に再現することに成功した部分もあるように思える(8)(9)。その文章は決して装飾的ではないが、なぜか制作中の技術者の心持ちを的確に伝えてくれている。今回の復元研究においても技術者の方々には時間の経過に従った表記をお願いしている。読み手の側にも、決して意図的ではではないけれども素直な表記がなされている報文の行間を読みとっていただくことを希望したい。
また、遺物や復元品の細部写真でも伝えにくい技術要素がたくさんあり、それを補完するのに図を多く使うように執筆者にお願いをした。図は写真とは異なり、わずかな「嘘」を加えて要点を強調表現することになるのであるが、より広く理解を得るために大切な手段だと考えている。ご理解をいただきたい。
(2) 普及行為としての復元展示(福島県文化財センター白河館の試み)
全国の博物館では学芸員の方々によって新しい博物館展示が模索されている。今回の福島県文化財センター白河館の企画は、これまでにない手法を取り入れようとした。「実際に触れる、使う」ということと「技術の復元研究」の2点に集約されよう。実際に触れる、使うことの製作側の課題の一つについては次項〔3〕で触れるが、それ以外にも、金属製品では人の手に触れることで錆びが発生しやすくなり、製作当時の色や輝きを保持することが難しくなるという問題が生ずる。半永久的に手入れをせずに済ますことができない。そこで、なるべく手入れの周期を長くとることができ、尚かつ復元品製作時の色や光沢に大きな影響を及ぼさないような表面処理を施すことが求められたのである。
品物や技術の理解には言葉や見た目では不十分な要素がたくさんある。ことに記憶という点で言えば、視覚や文字の記憶は脆いものであるが、触感や重量感などはほとんど消えない強い記憶である。その意味で今後も触れて理解する、あるいは持って理解するといった学習方法を博物館などでは積極的に採用することになることが予測される。復元研究をする私たちも触れることを前提とした復元品の仕上げ技法を開発しなければならない。実際には展示後のアフターケアという形で試行錯誤は行われ、よりよい方法が模索されるであろう。
註・引用文献
(1) 鈴木 勉「栄山寺鐘銘「ろう製文字型陽鋳銘」とその撰・書者について」『橿原考古学研究所紀要 考古学論攷 第22冊』1998年3月
(2) 『文化財と技術』第1号特集「古代金工・木工技術の復元研究」文化財と技術の研究会発行、2000年12月(『財団法人由良大和古代文化研究協会研究紀要』第6集から再録)
(3) 千賀久「古代の金工技術を復元する−古墳時代室の新しい展示−」『かしこうけん友史』第4号,奈良県立橿原考古学研究所友史会発行,1998年
(4) 鈴木 勉「新山古墳帯金具の技術を探り当てる」と「金銅薄肉彫り馬具を復元する」、共に『大古墳展−ヤマト王権と古墳の鏡−』所収、東京新聞発行、2000年
(5) 鈴木 勉「古代金工・木工技術の復元研究で何を復元するのか」『文化財と技術』第1号、文化財と技術の研究会発行、2000年12月(『財団法人由良大和古代文化研究協会研究紀要』第6集から再録)
(6) 鈴木 勉「復元研究の成果を技術史の立場から考える」『文化財と技術』第1号、文化財と技術の研究会発行、2000年12月(『財団法人由良大和古代文化研究協会研究紀要』第6集から再録)
(7) 依田香桃美「珠城山、新山、石光山古墳出土金工品の復元作業」『文化財と技術』第1号、文化財と技術の研究会発行、2000年12月(『財団法人由良大和古代文化研究協会研究紀要』第6集から再録)
(8) 黒川 浩「珠城山3号墳出土心葉形杏葉と新沢327号墳出土大刀龍文銀象嵌の復元について」『文化財と技術』第1号、文化財と技術の研究会発行、2000年12月(『財団法人由良大和古代文化研究協会研究紀要』第6集から再録)
(9) 松林正徳「珠城山3号墳出土心葉形鏡板の復元製作」『文化財と技術』第1号、文化財と技術の研究会発行、2000年12月(『財団法人由良大和古代文化研究協会研究紀要』第6集から再録)