5 有機質部分の復元
 1)木装黒漆塗鞍(鉄製座金具・二脚鋲状金具一対)
 笊内37号横穴墓では、鞍に付属する金属覆輪や磯金具がみられないが、鉄製の円形座金具、これに伴う具、二脚鋲状金具などの部品が出土しており、鉄製座金具の裏面には漆様の光沢が見られたということなので、後輪の以外に金属を伴わない黒漆塗木装鞍が副葬されていたと考えられる。小型の鉄製二脚鋲状金具一対の用途について、宮代栄一氏は鞍輪の上縁に打ち込まれていた想定案を示しており(宮代1996)、漆塗鞍の上面に革覆輪があり、これを留めていた可能性などが考えられるものの、この場合、鋲が山に対して平行・直交いずれの向きで打ち込まれていたかは検討の余地がある。一方以前からこの種の二脚鋲を鞍に伴う金具として注意を促していた(川江1988)川江秀孝氏は、静岡県周智郡森町院内甲古墳出土の鞍磯に伴う単脚飾金具との関連を指摘し、鞍の磯に付随する鋲と想定している(川江1998)。
 なお復元製作完了後、笊内37号横穴墓に存在した鞍を考える上で重要な知見が示されている。関義則氏は、腹帯留金具と考えられる鉄製の大型具を伴う木装鞍を検討し、さきの宮代氏の指摘を踏まえつつ、それらは以下の五点が特徴として認められると指摘している。
 @海・磯・覆輪に金属製の金具を使用することがない。
 A銅地や鉄地に金銅張または銀張をした双脚飾金具が伴う。
 B前輪と後輪の両方に刺金のない金属製のをもつ。とりわけ、前輪は特徴的な環状の輪金を持つ具である。
 Cの座金は、いわゆる四葉座形や花形、S字形などパルメット意匠に起源をもつと思われる形態を採用するものが多い。
 D各種の金具に銀張を多用する。とりわけ、の座金はほとんどの場合、銀張となっている。
 更に前輪と後輪の両方に金属製のをもち、かつ前輪の具が環状の輪金をもつ特徴的な構造については、通有の前輪に金属製のを持たない鞍とは、胸繋の装着方法が異なっていたことを示し、この種の鞍がある特定の系列に属しているとみる。そして、この特徴を宮代氏の分類に照らせば、 を両輪に取り付ける系列―木装両輪取付鞍―に該当する。そして宮代氏が、この系列の鞍が大型の前方後円墳からも出土していることを根拠に、金属部品を使用しないのは系列の違いであって、鉄地金銅装鞍よりも劣るものではないとする見解をふまえつつ、八幡観音塚古墳のが銅に鍍金を施した輪金に鉄地金銅張と銅地銀張を組み合わせた精巧な造りのものであるように、出土古墳の規模ばかりではなく、鞍金具の造りそのものから見ても、この形成の鞍が鉄地金銅装鞍よりも劣るものとは思えないとする。そして時期について、この系列はTK209型式期に登場したとされるが、腹帯留具の出現時期から考えるともう少し遡りTK43型式期には出現していた可能性があると述べる(関2000)。
 関氏の論考は筆者の長年の疑問を解明された労作としてその内容に敬意を表したいが、ただこの鞍が組み合う馬具を素環轡や新式の轡に絞り込んでいる点については、疑念を表明しておきたい。すなわち関氏の挙げた事例を含め、二脚鋲状金具を伴う鞍の例を通覧すると、群馬県高崎市八幡観音塚古墳では、銅地に金銅張円頭状と銀張三輪玉状の二種の二脚鋲状金具が出土し二領分の鞍金具と見なされる。前者は花形鏡板付轡・花形杏葉のセットに伴う鞍金具とみられる。後者はS字形の後輪のの座金と円環の具が付いた前輪の(金銅製の輪金と輪金に搦めた鉄製脚の座金の表に出る部分に金銅を、座金は銅地に銀を被せて金銀色の対比効果を狙ったもので、刺金はもたず、前輪も具は銅輪で座金は鉄地銀張となっている)と一具をなす鞍金具とみられ、金属轡や火焔光背形の棘葉形杏葉、腹帯金具とみられる鉄製具と組み合うと推定される(群馬県古墳時代研究会1996)。
 群馬県芳賀村五代大日塚古墳では、花形鏡板付轡・花形杏葉と環状鏡板付轡の二組の馬具があり、帰属は不明確ながら鉄製具と四葉座形の銀張の座金を持つ前・後輪の、銅地金鍍金の輪金及び二脚鋲状金具などが伴っている(群馬県古墳時代研究会1996)。
 群馬県太田市今泉口八幡山古墳でも花形鏡板付轡・花形杏葉と組み合うとみられる四葉座形座金具・金銅張の二脚鋲状金具が出土している(群馬県古墳時代研究会1996)。
 栃木県南河内町御鷲山古墳では、環状鏡板付轡と鉄地金銅張辻金具,長方形・方形・菱形の各鉄地金銅張飾金具とともに、脚部に木質の付着(木目に直交か)した銀張の二脚鋲状金具と、円環の具が付いた前輪のが伴っている(斉藤1992)。
 茨城県協和町小栗地内丑塚3号墳(寺山T号墳)は直径40mの円墳で、素環轡・木製壺鐙に伴うと考えられる兵庫鎖一対、宝珠飾付金銅製辻金具約3個体分の残片などとともに円形座金具を伴う金具一対、二脚鋲状金具5点が出土している(小栗地内遺跡調査会1986)。
 千葉県成東町駄ノ塚古墳では、心葉形連珠紋杏葉破片2個体分、歩揺付雲珠部品3個体以上、鉄地銀張爪形金具36個、とおぼしき座付環金具1とともに金銅製の円頭二脚鋲状金具12が出土しており(大久保1996)、おそらく鏡板・杏葉ともづくりで、鞍に金属覆輪・磯金具を伴わないタイプと考えられる(国立歴史民俗博物館1996)。
 埼玉県東松山市古凍14号墳は長径約20mの円墳で、墳裾の4号土坑からは、殉葬馬に装着されていたと見られる馬具一式が出土し、環状鏡板付轡、前輪・後輪各金具2、具(腹帯)とともに金銅製の三稜頭二脚鋲状金具のやや大きいもの2、やや小さいもの2点の合計4点が出土している(東松山市教育委員会1996)。
 神奈川県大和市浅間神社西4号横穴でも円頭の二脚鋲状金具2点が出土している(渡辺・曽根1978)。
 神奈川県伊勢原市登尾山古墳では、心葉形鏡板付轡、心葉形杏葉3、半球形雲珠1、半球形辻金具2、長方形革帯飾金具31、鐙の上金具2とともに、鞍に関する金具として、具4、脚1、鉄製扁円輪1、金銅製の円頭二脚鋲状金具4が出土している。このうち鞍金具・鐙金具は玄門を挟んで玄室手前と羨道に跨って出土しており、鐙を懸垂した木装鞍が玄門の床石上に置かれていたと推測される。二脚鋲状金具は羨道部側で具2個、腹帯具とともに出土したもので、2個ずつかたまって出土しており、一方は具に近接して出土しており、鞍の磯か前輪・後輪のいずれかに取り付けられていたと推定できる(赤星1970)。出土遺物の再報告を行った立花実・手島真実氏は「二脚付半球形鋲は木製の鞍に打たれた飾鋲だと考えておきたい」と述べている(立花・手島1999)。
 静岡県静岡市丸山古墳は一辺18mの方墳で、横穴式石室中に組合式石棺と家形石棺を納め、金具一対とともに二脚鋲状金具,大型具、三角錘形壺鐙に伴う鐙の上金具が出土している(川江1986)。
 静岡県浜松市蛭子森古墳は径23.6mの円墳で、立聞具素環鏡板付轡とともに、円頭の金銅製二脚鋲状金具2点のほか銀象嵌円頭大刀、鳥鈕付須恵器壺蓋が出土している(川江1986)。
 静岡県浜岡町杉森諏訪の池D8号横穴では具2、二脚鋲状金具1が出土している。
 京都府湯舟坂二号墳は径17.5mを測る円墳で、轡から四組のセットと報告されているが、三組の環状鏡板付轡と後輪のが出土している。このほか報告書には金銅製の「三輪玉状金具」片が掲載されており、三稜頭の二脚鋲状金具の破片である可能性がある。
 岡山県北房町定東塚古墳は東西25m、南北18mの方墳で、横穴式石室内から花形鏡板付轡、花形杏葉2個体分、大型心葉形三葉文杏葉4個体分、心葉形透彫障泥金具3、5、辻金具5、具2(腹帯か)とともに銅製で円頭の二脚鋲状金具1点が出土している(岡山大学考古学研究室2001)。
 熊本県山鹿市オブサン古墳は長径12.7mの円墳で、連続三角文を施した副室構造の横穴式石室から環状鏡板付轡2、心葉形十字文杏葉1、双葉渦巻文杏葉2、鐙破片4、具3以上(腹帯含む)、3、辻金具片4、飾金具23以上とともに鉄地銀張で三稜頭の二脚鋲状金具1点が出土している(宮代1996)。
 以上、二脚鋲状金具は八幡観音塚・駄ノ塚、古凍14号墳、浅間神社西4号横穴、登尾山古墳、丸山、諏訪の池D8号横穴、蛭子森、湯舟坂二号墳、定東塚、オブサンなどに例があり、殉葬馬に装着された古凍14号墳の例より馬具であることは確実で、鞍金具を伴う場合は・座金具のみで覆輪や磯金具がみられないことから、木装鞍の部品に限定して考えてよかろう。
 これらのうちには素環轡や轡を伴う例もあるが、花形鏡板轡ないしその近縁の心葉形鏡板を共伴する例が八幡観音塚・五代大日塚・定東塚古墳・駄の塚・登尾山に見られ、観音塚からは飛鳥様式仏像の火焔光背と類似する杏葉が出土していることもあわせ、小野山節氏が着目(小野山1983)したような仏教美術意匠との強い交渉関係を示す馬具、それもともづくり鏡板付轡に組み合って見出されるのが本来のあり方と考えた方が理解しやすく、笊内37号横穴墓の馬装との比較の上でも矛盾が少ない。その年代については、登尾山古墳で出土したTK43新段階とされる須恵器高坏(関東の在地須恵器であれば、古相をとどめたより新しい時期のものである可能性も残る)より、該期を上限とし、TK217型式頃を下限とすると考えられる。すなわち二脚鋲状金具を伴う鞍は、花形や心葉形の鏡板・杏葉ともづくり期の金銅馬具もしくは鉄製素環轡に伴うもので、古墳時代に主流であった磯・海・覆輪などを金属装とする鞍とは異質なものと考えられる。
 このため復元想定にあたっては木装鞍の形状を参考とすべきであるが、山田良三氏による低湿地集落遺跡出土の木製鞍類の集成にその後の発見も加味すれば、山形県山形市嶋遺跡(7世紀、1968)、群馬県前橋市二之宮宮下東遺跡(6世紀)、群馬県新田町下田遺跡(5世紀後半)、静岡県浜松市伊場遺跡(6世紀後葉〜7世紀前葉、8世紀)、静岡県浜松市梶子遺跡(8世紀、)愛知県豊川市山西遺跡(6世紀末〜7世紀初頭)、愛知県田原町山崎遺跡(7世紀)、長野県長野市榎田遺跡(5世紀後半)、福井県福井市上河北遺跡(7世紀)、大阪府堺市百舌鳥陵南北遺跡(5世紀後半)、大阪府八尾市八尾南遺跡(5世紀中葉)、大阪府寝屋川市出雲遺跡(5世紀後半〜6世紀初頭)、奈良県榛原町谷遺跡(5世紀後半)、京都府福知山市石本遺跡(6世紀後半〜7世紀)、滋賀県草津市志那北遺跡(8世紀)、滋賀県中主町西河原森ノ内遺跡(7世紀後半、天武木簡共伴)、滋賀県能登川町斗西遺跡(8世紀初)、滋賀県長浜市神宮寺遺跡(5世紀末葉)、香川県坂出市下川津遺跡(6世紀後半〜7世紀末葉)、福岡県福岡市吉武遺跡(5世紀中葉)、佐賀県神埼町志波屋四ノ坪遺跡(6世紀)、三日月町石木遺跡(6世紀前半)などがあり、このうち嶋・伊場・山西・山崎・榎田・上河北・西河原森ノ内・斗西・下川津では木製壺鐙も出土していることから、たとえ簡素な木製鞍であっても、木製壺鐙と組み合わせることが原則であったとみられる(山田1994)。これらの殆どは黒漆塗りを施しているものの、実用本位の簡素な鞍である。いずれも前輪・後輪のみからなり、居木との連結状態は失われているが、いずれも後輪垂直鞍とみられる。後輪が斜めにつく後輪傾斜鞍は、福岡県八女市岩戸山古墳(527か)の石馬にすでにそれらしい表現があるため、笊内37号横穴墓の鞍でも採用されていた可能性は想定しておく必要があるが、垂直鞍に比べ、傾斜鞍は木取りや取り付け角度に応じたホゾの彫整にかなりの経験や技術が必要で、騎馬遊牧民族の世界では一般的であるものの、木取りも単純でホゾ穴を介して皮紐による結縛でこと足りる垂直鞍に比べ、普及度は格段に低かったと考えざるを得ない。
 いずれにせよ低湿地遺跡出土の木製鞍にはとりわけ優れた出来栄えや、金属部品の取り付け痕跡が明瞭なものがなく、また上塩冶築山などの大型金属装鞍にしばしば見られる、鞍橋の海板を中央で接ぎあわせる手法も確認されていないため、金銅装の轡や杏葉・雲珠・辻金具と組み合わされる高級な木製鞍とは用途や出来栄えに差があると考えざるを得ない。また付属具を見る限り唐代馬装の影響下にある8世紀の正倉院の木製鞍類については、小野山節氏が唐の鞍とは構造や形状に相違があることを根拠に、先行する倭製鞍との関係を指摘している(小野山1992)ものの、やはり朝鮮半島系から隋様式への転換期にあたる7世紀前半の笊内37号横穴墓の金銅装轡や尻繋装具に伴っていた鞍とは異質なものと考えられ、組み合わせるには難がある。
 ここで参考となるのが東京国立博物館に保管されている栃木県足利市足利公園古墳群より出土した鉄装銀象嵌鞍である。この鞍は海・磯・覆輪を分厚い鉄板で覆い、そこにタガネ彫りを施して銀線を象嵌したもので、特に海金具には亀甲繋文による区画があり、その内部に極めて形骸化して虫のような表現となっている鳳凰文を配しており(日本中央競馬会1992)、これは藤ノ木古墳鞍の亀甲繋文内の鳳凰・瑞獣意匠などを意識したものと思われるが、磯部には鉄製鉢形の座金を介して鉄環のを装着しており、さきに二脚鋲状金具を伴う鞍の特徴として挙げた、前輪のに環状金具を伴う点が共通することが注目される。古墳時代の鞍の場合、金属製の前輪のをもつこと自体一般的ではないので、これは一つの大きな特徴といえる。すなわちこの鞍は宮代栄一氏が指摘する(宮代1996)とおり、本来木装鞍の構造に則って製作されたと推測しうるが、それにとどまらず、こうした輪金構造は法隆寺献納宝物の灌頂幡の懸垂金具に見えることを重視したい(東京国立博物館1991)。銀線象嵌は象嵌大刀装具の工人の参加をうかがわせる。残念ながらこの鞍は欠損部が多く、現在展示されている復元鞍の形状への信頼にはおのずと限度があるが、海・磯金具や覆輪から想定される鞍の木質部の形状は、古墳時代の一般的な金属装鞍に比べて幅が狭く丸っこい鞍橋を、それに相応しい短く寸詰まりな居木で連結していた小振りの鞍と想像しうる。鞍橋の大きさは金属製では伝慶尚南道丹城邑出土品(東博蔵)、木製では山形県山形市嶋遺跡や大阪府堺市百舌鳥陵南遺跡のようなものが想像されるが、実例の乏しい居木の復元は困難である。
 中国の遼寧省では4〜5世紀の鮮卑墓から朝鮮半島や列島の原型となる古式の鞍が出土しているが、磯金具の内下部が尖り飛び出すという特徴があり、朝鮮半島では尚州新興里39号墓、列島では大阪府羽曳野市誉田丸山2号鞍や大阪府藤井寺市鞍塚、滋賀県栗東町新開1号墳などの鞍がそうした特徴をとどめているが、これはおそらく、断面円形の柱状木材を断面扇形に分割する居木の木取りに由来するものと思われ、馬の背に乗せるには厚手の下鞍を介する必要がある。これに対して、5世紀中葉以降の半島・列島の鞍では、磯金具の内下部が滑らかな波形にえぐられた形状となり、より薄い下鞍で馬体にフィットするような形状に変化していく。
 古墳時代併行期の鞍の居木の実物は、詳細が不明な遼寧省袁台子石室壁画墓のものを除けば、これまで新羅慶州天馬塚古墳出土例が唯一のものであったが、この鞍は儀杖性の強い大型品のようで、居木の全長は50pに達している(金基雄1975)。また神谷正弘氏は、梁山夫婦塚古墳出土の金銅装魚鱗文鞍の復元にあたり、居木長を45pに想定している(神谷1995)が、これらの大型鞍は日本列島で古墳殉葬馬として見出される体高130p前後の標準的な乗用馬(桃崎1993・1994・1999)に乗せるには大きすぎ、王侯ら首長層は特に大型の個体を選択して乗用にあてていたと想像させる。少なくとも笊内37号横穴墓出土の轡の銜幅を見る限りは、特に大型の馬とは考えられないので、少なくとも笊内37号横穴墓の金銅装馬具に伴う木製鞍は、上記の例よりも短くコンパクトな居木であるとみて大過ない。2002年2月1日の報道によれば、福岡県福岡市西区の元岡・桑原遺跡群では、7世紀中葉の層位から木製鞍の居木が出土したという。その詳細が報告されれば、笊内鞍の復元の上で、更なる知見をもたらすことが予想されよう。
 以上冗長となったが、足利公園古墳鞍の奇妙な金属部のうち、覆輪・海金具が示す鞍橋、および磯金具が示す居木端の形状こそ、笊内37号横穴墓に副葬されていたはずの木製黒漆塗鞍にある程度近似していると考えてよいだろう。また蛇足ながらつけ加えておくと、足利公園例に見る奇妙な鉢形座金の類例は、埼玉県永明寺古墳にみられ、ここでは素環轡・兵庫鎖・木芯鉄板張輪鐙残欠とともに刻目責金具を伴う6脚雲珠が出土しているが、このセットは藤ノ木古墳C組と類似しており、これらの馬具間の何らかの脈絡を窺わせる。
 足利公園古墳群出土鞍の座部には銀象嵌で花弁状の意匠が表現されているが、その流れを汲むと思われるのが、千葉県栄町龍角寺浅間山古墳から出土した銀製花弁形座金具である(白井1998)。この金具は、環状の金具をとりつけており、一対をなすことから、鞍の座金具の可能性があり、もし馬具なら、同時に出土した古式の毛彫馬具類に組み合うものである。毛彫馬具は殆どすべての場合、古墳時代的な磯・海・覆輪を金属装とするような鞍を共伴せず、せいぜい類が出土する程度なので、笊内鞍も、こうした実態がよくわかっていない7世紀型の木製漆塗鞍であったと考えて良いだろう。
 なお龍角寺浅間山古墳の金具に表現された六花弁形意匠は、白鳳様式仏像の代表的作例である百済観音の天冠・瓔珞に数多く表現された六花弁形の装飾文様とよく似ている。また浅間山では仏像天冠との強い関連を窺わせる金銅製の冠飾の破片も出土しているが、同様な意匠は道上型杏葉や法隆寺の三山冠をかぶる菩薩像の装飾に見える。よって笊内37号横穴墓の二脚鋲を伴う木製漆塗鞍や龍角寺浅間山の仏教的意匠を含んだ木製鞍および毛彫馬具類こそ、6世紀末〜7世紀中葉に飛鳥・白鳳仏の製作に携わった鞍作止利グループの馬具・造仏工房における具体的な作品と考えると理解しやすい。なお福島県いわき市八幡(やあど)横穴墓群13号横穴では忍冬文透彫金具(近つ飛鳥博物館 1997)が出土しているが、その製作技法・形状・意匠は法隆寺献納宝物の幡頭手金具(東京国立博物館1991)と酷似しており(大竹 1984)、こうした事例の存在からも、止利仏師工房の関与する金工品が福島県下にもたらされても、何ら不思議はない。蘇我氏と密接な関係を有していた止利仏師工房は、おそらく大化改新(645年)以降再編され、飛鳥池遺跡に代表される宮廷付属工房に吸収されてしまったものと容易に想像されるところであるが、もし笊内37号横穴墓出土馬具が、聖徳太子在命時の推古朝における止利仏師工房と密接な関係を有するとの想定が誤りなければ、その配布をうけた笊内古墳群の集団の性格もまた、聖徳太子を支えた舎人騎兵や蘇我氏との関係から再検討されねばならないだろう。

 2)木製壺鐙について
 笊内37号横穴墓からは兵庫鎖や上金具など鐙の存在を示す証拠は見いだされていないが、年代的にみて、おそらく木製鐙を革紐で懸垂していたものと推定される。その形状については、輪鐙と壺鐙の2種類が考えられるが、現在知られている木製輪鐙は、最近奈良県桜井市箸墓古墳の周溝から出土したものが、4世紀ないしそれ以前に遡る可能性が指摘されているが、評価の難しい遺物である。宮城県仙台市藤田新田遺跡のものが5世紀中葉、大阪府四条畷市蔀屋北遺跡のものが5世紀後半、滋賀県長浜市神宮寺遺跡のものが5世紀後半〜6世紀初めの比較的古い段階のものである。ただし木製輪鐙は、本来桑などの木を添え木を当ててたわめて作るべきもので、板を吊輪状にくりぬいた上記の事例は、強度の点で実用性に疑問が持たれる。いずれにせよ6世紀後半以降の例は全く知られておらず、候補から除外してよい。
 そこで木製壺鐙の装着を前提として検討を試みると、近年報告された長野県榎田遺跡では5世紀中葉頃の層位より杓子形の黒漆塗壺鐙が出土している。これと同時期頃には木心鉄板張壺鐙も出現するようで、出土した甲冑類が5世紀中葉、遅くとも後半に遡る奈良県円照寺墓山古墳では、遊環を伴う百済・馬韓系轡とともに木心鉄板張壺鐙の破片が出土している。また大阪府長持山古墳でも木心鉄板張壺鐙と考えられる鳩胸部が突出する金具があり、5世紀後半のものと考えられる。よって列島における全木製壺鐙の出現は、5世紀中葉まで遡る。その原型はいまのところはっきりしないが、列島で自生したものではなく、おそらく5世紀前半〜後半の百済・馬韓域の土壙墓で出土する鐙の上金具のみからなる木心鉄板張輪鐙とされるもののうちに、原型となる壺鐙も含まれていると考えておきたい。展開期の木製壺鐙については永井宏幸氏の集成と検討(永井1996)があり、本復元において依拠するところ大きかった。
 6〜8世紀の木製壺鐙を通覧すると、山形県山形市嶋遺跡(杓子型壺鐙、7世紀)、埼玉県行田市小敷田(三角錘形壺鐙、5世紀?)、埼玉県行田市池守遺跡(三角錘型壺鐙、6世紀後半)、福岡県福岡市下山門遺跡(三角錐形壺鐙、6世紀)、福井県福井市上河北遺跡(三角錐型壺鐙、7世紀)、静岡県浜松市伊場遺跡(三角錘型壺鐙、6世紀後半)、香川県坂出市下川津遺跡(無花果型壺鐙、7〜8世紀)、愛知県田原町山崎遺跡(無花果型壺鐙、7世紀)、福岡県北九州市石田遺跡(無花果型壺鐙、8世紀)、静岡県藤枝市御子ヶ谷遺跡(舌鐙、8世紀)などの例がある。山形県嶋遺跡では7世紀の層位より杓子形の壺鐙が出土しているが、この種の壺鐙は6世紀代でほぼ消滅するとみられていることから、東北地方に古い形態が残存していた可能性があるという。前述のように笊内37号横穴墓例は畿内周辺で製作された馬具セットの可能性が高いので、他の例を見ると、6世紀後半から7世紀にかかる埼玉県池守遺跡、福井県上河北遺跡、静岡県伊場遺跡例はいずれも鳩胸の突出の少ない三角錘形でこの種の壺鐙の全国的普及が推定されるため、復元製作の手本とした。