7 残された問題点
 1)金銅装馬具を出土した横穴墓の類例とその意義
 福岡県飯塚市櫨山古墳は、嶋田光一氏による旧在地の探索と出土品の検討を通じ、金銅装馬具(棘楕円形鏡板付轡一対・剣菱形杏葉2・金銅製帯金具具1・垂飾付装飾板6))、貝輪、鉄製品(鉄斧・鉄鑿・鉄族・鉄刀・鉄刀子・U字鋤先・鉄鎌)などの豊富な副葬品を有する、首長級古墳並の内容を有する横穴墓であることが突き止められている(嶋田1990)。嶋田氏によれば飯塚市稲荷町の横穴墓から櫨山古墳の金銅製剣菱形杏葉と,全く同一の杏葉が出土しているといい、これが現在知り得る横穴墓への金銅装馬具副葬の上限ならびに馬具分割の最も古い例ではないかと考えられる。このうち鏡板付轡は、長野県茅野市疱瘡神塚古墳(松尾1985)や三重県安濃町ツヅミ2号墳(毎日・北勢99・10・21)、島根県大念寺古墳(西尾1986)に類例があるが特殊なもので、櫨山・疱瘡神塚例はいずれも剣菱形杏葉と組み合い、6世紀前半に位置付けられる。
 福岡県飯塚市池田1号横穴墓は櫨山古墳に近い位置にあり、1963年の調査で大量の須恵器、玉類、鉄刀類、金銅製透彫の飾金具1、金銅製頭椎柄頭1、金銅製圭頭柄頭3、王塚古墳に類例のある壺鐙一組が出土している(児島 1973)。
 福岡県穂波町西ノ浦上13号横穴墓からは、多量の須恵器(TK43)と共に鉄鏃、鍔、耳環、金銅製八脚雲珠、金銅張心葉形透彫鏡板残欠、鉄製素環鏡板が出土している。14号横穴では金銅張心葉形透彫杏葉、雲珠残欠、辻金具残欠が出土しており、ここでも金銅装馬具の分割副葬が行われている可能性が高い。両横穴墓とも、横穴式石室の羨道に類似した、石組構造を持った大型横穴墓である(太郎丸遺跡調査会1987)。
 大分県大分市飛山4号横穴では、異常な多鋲打ちを施した鉄製f字形鏡板付轡、心葉形透彫杏葉、兵庫鎖付素環轡、壺鐙兵庫鎖、刻目付責金具などが出土しており、馬具はMT15期の特徴を示している。
 熊本県熊本市古城18−1号横穴では、心葉形三葉文杏葉、宝珠飾付辻金具、帯先爪形金具、腹帯具が出土している(宮代1996)。
 島根県安来市鷺の湯病院横穴は家形石棺1基を内蔵し、珠文鏡・金銅装冠立飾・太環式耳飾、歩揺付空玉、交差銀環、琥珀製棗玉、金銅製空玉、金銅装単鳳環頭大刀、金銅装円頭大刀、銀装大刀、金銅装鞍金具、金銅装鞍金具、金銅装雲珠・辻金具、轡、鹿角装刀子などの遺物が出土している(山本1984)。石棺は、出雲地方では稀な横口を持たないタイプで、さらに副葬品の金銅製太環式耳飾や歩揺付棗玉形空玉は、国内では類例がない反面、朝鮮半島の王族墓で一般的な装身具であるため、在地とは異なる石棺を採用し、朝鮮半島の王族と共通する装身具を身につける被葬者の性格が問題となる(大谷2001)。安来平野には金銅装大刀や金銀装馬具を副葬する横穴墓がしばしば見られ、横口式家形石棺に銀象嵌入大刀、銀装鞍金具を副葬する宮内U区1号横穴墓などの例がある。
 静岡県掛川市下俣山麓山洞穴は宇洞ケ谷横穴の北方250mに位置する。両袖式で玄室には両側壁に沿って二箇所の棺座を造り付け、中央には羨道まで達する排水口を設けている。須恵器(坏身1、無蓋高坏1、有蓋高坏5、脚付長頸壺1、2、壺蓋1、広口壺1、短頸壺1)、土師器(甕1)、鉄鏃13、鹿角装刀子1、鉄製環状鏡板付轡1、金銅装楕円形三葉文透楕円形杏葉4、同三葉文透変形杏葉3、同鞍金具、環状辻金具1が出土している(静岡県教育委員会 1971)。出土須恵器はTK10型式のものからなる。
 静岡県掛川市下俣宇洞ケ谷横穴は、明確な両袖式で玄室のほぼ中央には横穴掘削時にあらかじめ掘り残すことで造り付けた石棺がある。須恵器(坏身6、坏蓋3、無蓋高坏4、有蓋高坏14、脚付長頸壺2、台付広口壺、壺、壺蓋、坩、提瓶、高坏形器台1),土師器(坏身、高坏、脚付広口壺1)、変形神獣鏡、金銅装単鳳環頭大刀、鉄製円頭大刀、金銅装大刀、大刀、矛(石突共)、1、鉄鏃229、刀子5、両頭金具4、金銅装十字文透心葉形鏡板轡、同心葉文透彫心葉形杏葉3、同鞍金具2組、同辻金具4、同雲珠、鉄製環状鏡板付轡、木製壺鐙2足、馬鈴6、鉄製帯金具3、具2、耳環1、銀製空玉、ガラス製丸玉3、トンボ玉1が出土している。(三河古墳研究会 1999)出土須恵器はTK43型式のものからなる。このうち心葉形十字文鏡板付轡は三連銜の特殊なもので、韓国杜邱洞5号墳例に後続し、TK43型式期の群馬県綿貫観音山古墳に先行するもので、舶載品とみられる。
 静岡県森町観音寺本堂横穴は5基からなるうちの1基で、長さ3.1m,幅2.3m、高さ2.6m。須恵器(坏身17、坏蓋11、高坏2、平瓶3、脚付長頸壺1、1),土師器長頸壺1、耳環2、瑪瑙勾玉5、管玉1、ガラス小玉、双龍環頭大刀、頭椎大刀、心葉形杏葉、雲珠が出土している。出土須恵器はTK217型式およびそれ以降のものからなる。
 このように見てくると、金銅製馬具を持つ横穴墓は分布地域が福岡県筑豊地方、大分県豊後地域、島根県安来市周辺、静岡県掛川・森町周辺、そして福島県下と極めて限定されており、特殊な存在であることが指摘できる。
 花田勝広氏は全国的な横穴墓の展開を分析し、畿内の横穴墓は、6世紀前半に豊前地域よりその葬法が河内地域に導入され、物部氏と擬制的同族関係を結ぶ下位の集団の葬法として、営墓がなされたと推定するとともに、その被葬者には渡来系氏族も含まれることを指摘している(花田2001)。よって笊内37号横穴墓の卓越した内容についても、軍事的職能や渡来系出自などの要素も念頭に置いておく必要があるだろう。

8 おわりに
 以上の検討を通じ、
@ 棘葉形鏡板付轡・杏葉のうち笊内37号横穴墓と同種のD類は島根県・岡山県・兵庫県を西限、笊内例を東限としているが、畿内中枢部では全く出土しない。分布より畿内政権周辺の製作とみられるが、専ら周辺地域への配布を目的に製作されたと考えられる。
A 馬装を構成する、半球状隆起を持ち、責金具を伴わず布・革帯に鋲留された長方形飾金具の類例は、兵庫県を西限、笊内例を東限としているが、畿内中枢部では全く出土しない。分布より畿内政権周辺の製作とみられるが、専ら周辺地域、特に東国への配布を目的に製作されたと考えられる。
B 笊内37号横穴墓の鏡板・杏葉はその意匠がTK217期の心葉形鏡板・杏葉と共通する。TK217型式の須恵器は導水木樋の年輪年代が616年を示す狭山池の堤に営まれ、それ以降の年代にあたる狭山池1号窯、625年に没した蘇我馬子の墓と考えられる石舞台古墳から出土している。よって笊内馬具の製作年代も、それと同時か僅かに遡る7世紀第一四半期後半前後と考えられる。
C 鏡板付轡・杏葉はその意匠が聖徳太子の冥福を祈念して造像されたという法隆寺金銅釈迦三尊脇侍像光背(623年か)、法隆寺献納宝物中の金銅仏に伴う光背と共通するが、毛彫馬具と意匠を共有し、白鳳様式の代表作例である百済観音の天冠や装飾金具とは共通項が少なく、美術様式的には飛鳥様式、特に止利仏師工房の作例と共通点が多い。寺院荘厳に馬具工人が動員されはじめたころ、両者を手掛けた金工の工房内で製作されたと考えられる。
D 組み合う鞍は付属する二脚鋲状金具の特徴などから金属部分が非常に少ない木装黒漆塗鞍の1種と推定される。この種の鞍はしばしば花形鏡板・杏葉と組み合って用いられ、やはり寺院荘厳・造仏にかかる木工の工房の関与が推測される。
 古墳時代馬具の研究はこれまで、鏡板轡・杏葉・雲珠・鞍・鐙などの部品が、ばらばらに分離されて研究されてきた。このため個々の分類や集成、型式学的変遷についてはある程度の進展を見せているが、馬装復元の上で必ずしも有効な成果をあげているわけではない。馬具の部品の組み合わせは相互の連結方式によって規定されており、その型式学的変化の方向性をも規定している。こうした不可欠の要素を念頭に置かない個別型式学的研究の限界もおのずと明らかである。ところがこうしたパーツの総合検討に基づく馬装研究は、数多くの良好な事例が存在するにもかかわらず、煩瑣で困難が多いため、日本ではもっぱら埴輪馬装の検討に終始して十分手を付けられていないのが実情である。本論の執筆にあたっても、参考となる緻密な馬装復元は、藤ノ木古墳A組、上塩冶築山古墳などごく僅かであった。それが数十年にわたって蓄積されてきた日本の馬具研究の偽らざる水準である。
 しかし馬装の総合研究が進展すれば、例えば形式の異なる部品の組み合わせの傾向から、特定の工房群ならびにその背後にある集団の抽出が可能であると考えられ、それらと部品や製作技法の志向を全く異にする馬具セットがある場合は、別の工房群や集団の峻別も可能となってくる。その研究が高い意義を持つことは、改めて言うまでもないことである。
 海外では、例えばフランスではアナール学派の活動以降、一般読者向けのビジュアルな歴史読本にも、緻密な考証に基づくイラストが無数にちりばめられ、臨場感溢れるイメージを喚起し、当然研究者の基礎知識の底上げにも貢献していると考えられるが、日本ではこうした試みは有職故実に通じた先学の成果があるものの、現状ではむしろ減少の一途をたどり、また総合力が要求される考証も十分でないのが実情であろう。今回の復元作業にあたっても、馬装の復元は文字通り手探り状態であり、いろいろ未解決の問題を残している。
 今後もこうした検討が出来るだけ多くの場で試みられる必要があるだろう。

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桃崎祐輔 1999 「日本列島における騎馬文化の受容と拡散―殺馬儀礼と初期馬具の拡散に見る慕容鮮卑・朝鮮三国伽耶の影響―」『渡来文化の受容と展開―5世紀における政治的・社会的変化の具体相(2)−』 埋蔵文化財研究会 pp.373‐420.
桃崎祐輔 2000 「馬具」『風返稲荷山古墳』霞ヶ浦町教育委員会
桃崎祐輔 2001 「棘葉形杏葉・鏡板の変遷とその意義」『筑波大学 先史学・考古学研究』第12号 筑波大学歴史・人類学系 pp.1−36.
森浩一 1974 「考古学と馬」『日本古代文化の探求 馬』
森貞次郎 1988 「岩戸山古墳石馬の杏葉馬装具について」『考古学叢考』中 齋藤忠先生頌寿記念刊行会
山田良三 1973 「古墳出土の馬具」『日本古墳文化の探求 馬』
山田良三 1994 「古代の木製馬鞍」『橿原考古学研究所論集』十二 奈良県立橿原考古学研究所論集』
山本忠尚 1995 「桃形・猪目形透彫考」『古墳文化とその時代』勉誠社刊 pp.499−527.
山本忠尚 1996 『日本の美術3 bR58 唐草紋』至文堂 
李 尚律 1993 「三国時代杏葉小考―嶺南地方出土品を中心として―」『嶺南考古学』13 pp.107−156.
李 蘭英・金 斗 1999 『韓国の馬具』
渡辺勲・曽根博明 1978 「浅間神社西側横穴古墳群発掘調査報告書」『大和市文化財調査報告書』1
和田山町教育委員会 1988 『兵庫県朝来郡和田山町 秋葉山墳墓群』
追記
 脱稿後、大分県日田市の天満1号墳で、方形銜通孔座のある心葉形鏡板付轡やイモガイ製雲珠とともに、新羅慶州皇吾里16号墳第1槨例(図1−28)と酷似する5棘葉形杏葉(C類)が出土していることを知った。なお隣接する天満2号墳では、埼玉中の山古墳のものと類似する須恵器埴輪壺も出土している。皇吾里16号墳第1槨では埼玉将軍山(図1−3)と同じE類で先行する3棘葉形杏葉(図1−2)も出土しており、慶州・埼玉・天満間の何らかの脈絡を窺わせる。(日田市教育委員会 2000 『吹上遺跡・天満古墳一範囲確認に伴う概要報告』)