図4 笊内37号分出土鞍復元図

3 金属装木製鞍の構成と仕上げ
 以上、検討した結果から復元される笊内37号横穴墓出土鞍の形態・構造と仕上げについて、各部毎に摘記しておきたい(図4)。
@ 居木部は、木製の板状居木と考えられる。2枚構成で、古墳出土の金具の痕跡から先端部の断面形状は軒平瓦状の逆L字形の形態が想定される。上面の臀部を受ける部分は浅い半球形状に窪んだ形状に加工されていた可能性が高い。また、鞍橋部と結合させるための段と結束孔が両端の上面に設けられていたと考えられる。
A は、居木部前後先端の磯部に取付けられる。位置は磯部のそれぞれほぼ中央下辺寄りで、具付金具一組は後輪に付属し、前輪には革紐などの材質でできた一組が装着されていたと想定される。
B 鞍橋部は木製で、前輪と後輪が垂直に立つ後輪垂直型鞍と考えられる。鞍橋部下部が短い形態で、中央部下辺近くには、居木部に載せて結束するための結束孔が開けられた瘤状の突起(受部)が形成されていたと考えられる。居木部との結合は、居木部上面の段に落込み、革紐などによって結縛されていたと考えられる。
C 鐙力革の取付位置は、居木板上面の前輪寄りの内側で、この位置に取付孔が開けられていたと推定される。力革は居木部上面を経て、居木部外縁から垂下していたと考えられる。
D 下鞍は、居木部が非馬背型であるため中央に相当な厚みのある座布団状であったと想定することができる。材質は、和歌山県大谷古墳出土の鞍金具に付着した有機質の痕跡などから、綾布や平絹布などが重なった構造であったと推定され、中身は上層に絹綿、下層に藁などが詰められていた可能性が高いと考えられる。
E 鞍敷は、臀部を保護するための主要部分と下肢を保護するため補助部分からなる分離型である可能性が高い。補助部分は鐙力革装着の後、主要部分の上に重ねて使用したと推定される。主要部分は厚みのある長方形で、補助部分は下半が舌状に延びる形状で先端が障泥の上縁に接する。材質は、主要部分が絹綿・藁などが詰められた平絹布などをキルティング加工したものと考えられ、補助部分は革製と推定される。
F 障泥は、左右の主要部分を革帯で繋ぎ、革帯部を居木板の上面に渡して、鞍敷の下に設置したと推定される。鐙力革と同じく、居木部に取付孔を設けていた可能性も高い。材質は、奈良県藤ノ木古墳出土例などから革製と推定される。

図5 兎ギ坂1号墳出土漆塗木製鞍橋(福岡県教育委員会1993)

G 木質部の塗装は、鞍金具に残った木質などから無塗装の場合も多いと考えられるが、福岡県兎ギ坂1号墳出土の木製鞍などから、黒漆塗りで仕上げていた可能性も十分に考えられる(図5)。


(1) 本稿は共同で馬装全体の復元に当たった桃崎祐輔氏との討論の過程で得た部分が大きい。今回は金属製馬具の類例から検討できる胸繋・尻繋などの鞍以外の馬装部分と鞍部分の報告を分担した。図4は桃崎氏原図を改訂したものである。
(2) この点、運搬・耕作用の牛馬荷鞍なども同様である(河野1987)。
(3) これに対し、初期馬具や半島出土金属装鞍には後輪のを4箇所もつものが多い(宮代1986)。これらの居木部がどのような構造をもつかについては、今後十分に検討しなければならない。
(4) 通常、1本である脚の先端は居木部に打ち込まれて折り曲げられているが、打ち込まれずに一定の間隔をもつ2本の脚部先端を環状にして、両者を貫通する横方向の棒状金具をかしめて留めている例などもある。居木部縦断面の形状は、軒平瓦状以外に、居木部先端に脚部先端を処理できる空間を居木部下面から彫り込んで、脚部を貫通させるような構造を想定することも可能であろう。これについては、機会を改めて検討したい。
(5) 和歌山県大谷古墳の鞍飾金具と推定されるJ字状金具の裏面には厚い有機質が付着しており、これらの金具は一般に居木板に装着した金具と推定されている(鹿野1990)。沢田むつ代氏の観察によれば、この有機質は綾布と平絹布からなる最低5重構造で、布の間には上層(金具側)に絹綿、下層に藁を挟んでいる。居木板に取り付けたというよりは居木板の範囲より外側にはみ出す下鞍部分の外縁に装着したと考える方が本例の場合は自然であろう。

参考文献
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樋口隆康「鐙の発生」『青陵』第19号、橿原考古学研究所、1972年
横田義章「木製品 鞍橋」『兎ギ坂古墳群』(福岡県文化財調査報告書 第106集)福岡県教育委員会、1993年
文化広報部文化財管理局『天馬塚発掘調査報告書』1974年
増田精一「古墳出土鞍の構造」『考古学雑誌』第50巻第4号、日本考古学会、1965年
増田精一「古代馬鞍の系譜」『長野県考古学会誌』第57号、長野県考古学会、1988年
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