c 弩復元製作
弩は弓の一種で、銃床のような矢を発射する台を取り付けた機械仕掛けの引き金を持ち、現代のボーガンに似た武器である。弓と比較して、貫通力・矢の速度・飛距離で上回る。一方矢をつがえるのに時間がかかり、速射に難点がある。野戦に不向きで、守備用の武器と言える。
中国では戦国時代に出現し、辺境防備の武器として普及した。日本では推古朝に高句麗から献上されたと「日本書紀」にあるのが文献での初出である。
奈良・平安時代の文献では弩の記載が比較的多く、「和名類聚集」では弩を「於保由美(おおゆみ)と読ませている。「軍防令」では国郡衙に弩を置き、軍団の一体(50人)から強壮の者2名を選出し弩手(おおゆみのて)にすることが規定されている。弩は天平12年の藤原広嗣の乱でも使用されている(「続日本紀」)。
平成11年宮城県教育委員会は築館町伊治城跡から弩の引き金部分「機」の発見を発表した。伊治城跡は奈良時代末に造営された、朝廷の蝦夷対策の拠点である。
「機」は引き金・弦をかける掛け金・標準の他に複数の部分からなり中国に現存するものと同じ構造である。弩機の出土は、これまで文献でのみ登場し、「幻の武器」として実在が疑われていた武器の存在を明らかにしたこと、「軍防令」の規定どおりに郡衙から出土したこと、兵士の宿舎と思われる竪穴住居跡から出土し、時期が限定されることからわが国の古代史における第一級の資料である。
白河軍団は古代白河郡17郷の軍団で、約1000人ほどの規模であった。白河軍団にかんする文献や木簡によれば、主要任務は陸奥国府多賀城の防衛と蝦夷との戦闘と考えられる。
弩復元品 伊治城跡出土弩機複製品 白河軍団の特徴として「弓」に関する記事が多いことが挙げられ、他の軍団と比較して弓に長けた部隊と論じられる場合が多い。
「延喜式」では国衙で弩の製作を行ったことが、記載されており、白河軍団が多賀城で弩を支給され、所持したことは明らかである。その時の弩は伊治城跡のものと同型のものである可能性は高い。
常設展示「しらかわ歴史名場面」では当初古代白河郡と白河軍団兵士に焦点を当てた展示を行なう。軍団兵士は「軍防令」に規定された軍団の装備品を復元し、2体の人形に装着させた展示を行なう。ここに弩を付け加えることで、軍団兵士の姿をより浮き彫りにしたいと意図した。
弩の復元は並列展示の観点から、伊治城跡出土品複製品と全体復元品の2つが必要となり、それぞれの製作を進めた。
両者の製作に当たっては宮城県教育委員会と宮城県築館町教育委員会に許諾を得、また復元に際しては、両教育委員会と宮城県多賀城跡調査研究所と弩復元検討会を開き、仕様や復元の方針について意見を交換した。
弩を構成する部品は、弓・弦・臂(銃床部)機である。機は牛・懸刀・牙・栓塞とこれらを覆う郭からなり、伊治城跡のものには中国では見られない外金具が付く。
復元の方針として、展示だけではなく、後々実射体験可能なものにすることを目標とした。
伊治城跡発掘調査報告書掲載の実測図と中国・朝鮮半島の弩の絵画・写真資料を参考に、全体の形状と大きさを想定した復元図を作成した。弩機は中国のものと比べると、小型で、全体も小型になると予想された。
復元製作は当館の馬具等の復元を担当した梅工房に委託した。その後、文化庁の新発見考古速報展に出品中の弩機を江戸東京博物館で詳細観察し、計測を行った。また弩の歴史的考察・弩機の構造と各部品の機能・弩機の製作方法・木質部の加工方法も並行して検討しつつ、復元を行った。復元研究の成果は後日、改めて報告することになる。
弩機複製品は(株)京都科学が製作した。